12/09「誕生日論」

 ということで、ああお久しぶりでございます。なんかもうどれくらいの人が見に来ているのやらさっぱりわかりませんが、年賀状イラストを描くためか『巫女装束』とかで検索して来ていただいている人が増えるとまたこう年末だなあって感じですね。
 んでまあ、年末ってことはあれです、恒例のあれがあるわけですね。まあもうまたひとつ余計に年をとってしまって、もうあれですね、もしかしたらおっさんかもなあってところから完全におっさんな年齢になりましたねもうね。頭もさらにハゲてきてますしね。関係ないだろハゲは。これも久しぶりですね。
 あたしはな、もうみなさんすっかり御存知の通り、おもしろい顔に生まれついてな、おもしろい人生を送ってるとだな、ハタチどころか35過ぎても童貞を守りきることができるということを人生をもって実証してきたわけです。まあみなさんの希望の星ですよね。風の中の昴砂浜の銀河ですよ。
 正直なことを云えばだ、そういうことについてそのなんてかな、悲観的っていうのかもっと云えば自虐的というのか、もっと云えば卑屈になってるところなんてのが多々あって、今考えれば冗談半分本気半分なところがあったわけですね。
 なんてんですかね、卑屈をこじらせていくと面白いなあと思うのは、これはもう自分もそうだったのですごいよくわかるのですけれど、なんてかな、自分が卑屈になるための理由づけってんですか、俺はこれだけ不幸なんだ、それは自分がモテないことが、ひいてはそのモテないことの原因であるいろいろなものや社会や俺の価値がわからない女性が悪いんだということを理論だてて説明する理論武装だけは無敵なくらい完璧だということなんですよ。
 だからよく、なんとか知恵袋みたいなので、「30過ぎて童貞ですけどこんなの気持ち悪いですよね」みたいな質問?があって、それに対して回答者が「こうしたらどうでしょう」とか「そういうこと気にしすぎないほうがいい」みたいな方法論とかを示しても、それに対して「いやそれはこういう理由で無理で、だからこんなに俺は気持ち悪いのだ」ということをものすごい筋道立てて理論的に反論(?)してるわけです。
 で、この反論ってそういうことを云われたからそこで作ってるわけではなくて、既にその場で完璧に構築されているっていうか、なんかそういうことで、自分の中ではものすごい理路整然とまとまってるんですよこれ。
 これな、上にも書いたとおり自分も通ってきた道なのでよくわかるんですが、それはもうなんというか本音というか、完璧な反論になってるんですけど、ほら、説得力ある反論も前に行くための反論と後ろに行くための反論ってのがあるじゃないですか。
 たとえばだな、道を歩いていて、目の前に道がなくなったとき、「こういう理由だから絶対前に進んだほうがいい」っていう説得も、「そんなん危ないからさっさと帰ろう」っていう説得も、理論を以てすれば説得力を持たせることができるわけで、あとはその人の姿勢次第というか、行きたいという気持ちか戻りたいという気持かの問題なわけです。
 それでいくとな、この手の質問って結局な、自分のことを振り返ってみてもだ、なにか解決策を求めてるんじゃなくて、「かわいそうですね」って云ってほしいってのがあって、さらにもっと極端に云えば「そんなかわいそうなら、わたしが彼女になってあげます」っていうのを待ってるみたいな、なんかそういうことなんじゃないかと思うわけですよね。究極の受身なわけですよ。
 んだからな、わたしも含めたこの手の人の話を普通のひとが聴いてると、おそらくいらいらすると思うんですね。なんかこう理屈っぽいっていうか、そういうあれで。
 なんだろうな、よく云われる「とにかくなんでもいいから行動してみろ」っていうのってよく云われるんですけど、「俺みたいなのが行動したって結果は見えている。なぜなら」というところからはじまる説得力ある理論とかそういうのがあって、まあ、それって正解なんですよ。だいたいやってみてもダメなものはダメで「ほら見たことか」になるわけです。ちゅうかそもそも漠然と「行動しろ」って云われたってなにしていいのかわからんじゃないか、みたいなこともあるわけですね。
 それでも、なんにもしなければやっぱりなんにも起こらないわけで、そういうことも含めて「やってみろ」っていうことなんだと思うんですけど、それに対して散々反論して、今度はそうするとそもそもなにをしたらいいのかわからない、みたいなところに陥ったりもするんですね。あたしもそれに気付くのがちょっと遅すぎたのだなあ。
 あたしはさ、何度も云ってますけど、やっぱり顔はまごうことなきおもしろフェイスだと思うんですよ。これはまあどれだけ客観的に見ても変わらないと思うんです。
 しかしあれだ、世の中の人間の多くは顔に自信がないっていうか、俺なんてそこそこカッコよくてさあみたいなことってのはそれこそある程度ナルシストっていうかそういう人だけが持ちうる感情なのかなあと思っていたんですけど、どうやら世の中そうでもないらしく、意外と「俺の顔は中の下だけど」とか、下手したら「中の上だけど」みたいな人の多いことな。意外とみんな自分の見てくれには自信があるんだな。
 そんな中でな、てめえのツラに自信がないわ、しかもここにきてトドメをさすかのようにハゲかかってきてそれに磨きがかかってるわみたいなことがあったりすればそういうことで卑屈になるのはわからないではないんですけど、同性でも異性でも、だれしもそんな負の感情を抱いた人間に魅力なんか感じるわけがないんですな考えてみればな。
 卑屈になるとさ、なんかこう自分が実質的にも社会的にも弱くなったような気がするんだよ。
 これがまた危険でね、それを繰り返してるうちに、だんだん本気になってくるっていうか、最初はまあ自分はなんでこんなにひどいんだろうっていうのを嘆いてるだけなんだけど、自己暗示ってのかな、それを繰り返してるとほんとに自分が社会から迫害されているような阻害されているようなそんな気がしてくるんだよ。
 それがまあ、変な話妄想っていうか、免許の試験とかでよくある「みんなが自分を狙っているような気がする」みたいなそういうあれになるのはわりと極端なパターンだとしても、その前段階として、「俺はこんなに弱いのに、どうして社会は俺を守ってくれないんだ」っていう発想になるんだな。
 だから、そういうのをこじらせた人ほど、社会において守られているものとか優遇されているものとか、そういうものに対してセンシティブというか、強烈な恨みを感じるんじゃないかなと思うんですよ。ネットなんかでよくある生活保護受給者とか、あるいはもっといえば女性とかな。
 そらまあ、女性専用車両なんてなあって思う気持ちはある程度あるにせよ、それをこじらせると、あんなものが世界にあることが信じられない男性差別だ、みたいなな。
 とかく、自分以外の存在が少しでも優遇されていて、こんなにかわいそうな自分が優遇されていないのは絶対におかしいみたいなことになるわけだ。まあ、人間だれしも少なからずそういう気持ちあるんですけど、それをどんどん増幅されるアンプみたいなもんなんだよ卑屈ってのは。
 でな、立ちかえってみると、そんな人間のどこに魅力を感じるんだってことですよ。
 かえすがえすもこれってもう自分のこと振り返ってみるとな、まさにもう自分のことというか、あああたしもそうだったなあと思うんであれなんですけど、あたしがまだ運がよかったのはさ、このサイトをやってたことで、それをある程度発散できてたところなんじゃないかとこう思うわけです。
 まあね、そういうなんだ、回りの人が普通にやってることができないってのはさ、やっぱりこうある程度ストレスでね、ましてやこのままではいかんのじゃないかと思いながらもどうしたらいいかわからないみたいなジレンマがあって、その中でもう身もだえていたわけですけど、その身もだえている感じをネタにできてるってのは、ある意味幸運ではあったのですなあ。
 もちろんね、伝わってない部分とかもあっただろうし、そう思われてない部分もあっただろうけど、そうだなあそれこそ20代の頃ってのは、テメエの面構えとかコンプレックスまとめて、どうして俺はこんななんだ!っていうことを悲劇としてしかとらえてなくて、上に書いたような卑屈を思いっきり発散させてた気がするんですけど、30過ぎてしばらくしてからかな、なんかもうそれはそれでネタにしてやれってのになったんですね。
 そらまあもちろん髪の毛薄くなり始めたのとか含めて、そういうことを気にしてなかったかってったらそれは嘘になりますしコンプレックスはコンプレックスのままなんですけど、それまではそれを口に出すことすらはばかられるっていうか、そんなこと自分で云いたくもなかったわけですけど、それがもう一気にネジが吹き飛んで、もうネタにすることになんの抵抗もなくなったわけだこれが。
 まあ、ある意味そういうなんだ、卑屈になってもあんまり得はないですよってことに気付いたのって、あたしだってたぶん30過ぎたあたりだったし、特に若い人がそういうのでひたすらバックギアでアクセル全開してるのを見てほほえましいなあと思いつつも、それではなんにも解決しないんだよなあという気持ちもあるわけですよこれ。

 まあそういうわけでして、長々と何が云いたいかと云いますとですね、今年4月1日の日記にも書いてますけど、いまわたし付き合ってる彼女がおりましてですねいや今度のはネタとかまみちゃんとかそういうあれではなくほんものの人間の。ほんものの人間て。
 人生36年目にしてはじめてだこんなことは。なにエイプリルフールじゃなかったのかって。エイプリルフールだからって嘘書かなきゃいけないってことはないし、実際「これで最終回です」って書いてあるのに終わってないだろ。それが嘘部分なんだよ。
 なんかまあ、今まで36年間そういうことと無縁だったのでこういうものがどういう風に行動するのが正しいのかはわかりませんが、それはそれで楽しくやっておりますので、あたしらにしてみたらこれが正解なのでしょう。たぶんな。
 ここが更新されなくなるときは彼女ができたときだなんてなことを冗談半分で長いこと描いてましたけど、それはあれだ、あながち大げさではなかったのですなあ。そういうことを長いこと云ってたので、その約束事としてこれ書いてますけど、こういうこと書くのはまあきっと今回が最初で最後だから。
 しかしそういうなんだ、あたしみたいな人がどれくらいいるかはわかりませんが、あたしと同じようにその、特に恋愛方面においてある程度無理めの人生ゲームをがんばってる人もここにはたくさんいると思うんですよ。
 そんな君らに云っておくがな、世の中マニアはいるぞ、ほんとに。こんなんでもいいって人間がいんだから。そこに必要なのはほんの少し、一歩だけ自分の考えていることより無茶をしてみるだけなんだよいやマジで。
 なんつったって36年間ですよあなた、一度も彼女どころか女の子と手をつないだこともなく、女性と二人で何か話をしたりみたいなそんなこと一回もしたことないようなあれでしたよあたしなんか。むっちゃくちゃ童貞つきとおしてきましたし。もう絵にかいたような「絶対これから先彼女できないだろシチュエーション」だったわけでして、ああこら一生そういう愛恋沙汰みたいなことしないまま死んでいくのだなあと思ったことも一日二日じゃないですよ。
 なんだろうな、そのためにいままでしゃらくさいと思ってやってなかったようなこともやりましたし、はじめてじゃないかな、こういうことに関して前向きな努力っていうかそういうのをやろうってなことを思ったのは。
 あたしはさ、なんてかその、ものすごい臆病で後ろ向きさを徹底的にこじらせて生きてきましたし、常に言い訳を考えて生きてるような人間でしたしね、上にも書いたようにものすごい卑屈でしたから、その卑屈なところにいわゆるかまってオーラを出していたのはまあ間違いないと思いますし、ついでに云えばそういうなんだ、偶然の出会いみたいなのに期待できるような運も持ち合わせてないから、そこはもうなんだ、ふとしたところに転がってたきっかけを見つけたとき、こらがんばらないかんよなあと思ったんだな自然と。
 30過ぎて彼女できなかったらもう彼女なんか無理だとか、よりによって35で童貞なんてのはもう絶対無理、みたいなのがネットなんかだともっともらしく云われてますけど、ここにちゃんと36歳童貞ではじめて彼女ができたって実例を作ったわけで、あたしがなんとかなるんだからなんとかなるっていやほんと。どうにかしようと思えばどうにかなるけど、空から彼女は降ってこないぞ。どうにかしようと思ったところにどうにかなる結論があるんだよ。これはあたしも今回初めて知ったけど。
 まあなんだ、結論としては、卑屈になろうと後ろを振り返ろうと、基本誰も構っちゃくれないし、それで構ってもらえるのはすでに彼女なり彼氏なりがふつうにできるくらいにモテ人生を送ってきてるやつだけなんだから、とりあえずあれだ、前向きにいろいろやってみるといいんじゃないかなってことですね。


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