06/11「主役論」

 ということで、そのなんだ、いろいろあったんですって。なんか最近このはじまり方ばっかりだな、っても最近じゃないよね。わかってますわかってるんですよ。
 まあなんてんですかね、忙しいとかそういうあれももちろんあるんですけども、なんだろうなあ、もっと大事なこうなんだ、前に進もうじゃないか的な前向きさがなくなっちゃったんだな。なにいきなり遁世してんだ。
 あたしはさ、まあその長いことここを見てる人しか知らないと思いますけども、高校の時に演劇部におりまして、しかも部長さんだったわけですよ。なんで部長さんだったかってとだね、もともとあたしが行ってた学校には演劇部がなくて、あたしが云いだしっぺで作った部だったからなんですけども。
 高校に入ってさ、まあその高校ってのが男子校だったわけなんですけど、もう前見ても横見ても後ろ見ても学ランボーイズしかいないわけですよね、そこでもう恋愛とかそういうなんだろうな、中学校の時に夢見てたようなことはもう無理だなと即座にわかってしまったわけですよ。いやもちろん共学だったら恋愛ができるのかというとそれはまた別問題ですけど、それはそのなんだろうな、確率論の問題ですよ。
 そうするとさ、もう部活とかでやりたいことやるしかないわけだったんですけど、演劇やりたかったのに演劇部がなくて、それならってことで部創設のために奔走すると云う、これが女子高生だったらどっかの4コマ誌かなんかで漫画化されてその挙句アニメ化されてもおかしくないようなアレだったんですけど、奈何せんやってるのがニキビ面の不細工男ですからね、そのへんはまあどうしようもないわけなんですけどそれはともかく。
 もともと演劇って好きだったんですよね。いやまあ、もちろん中学生のときにやたらと読んでかぶれた鴻上尚史氏のおかげでもあるんですけど、それ以前からなんてかな、映画はあんまり興味なかったけど演劇は好きだったんですよ。
 まあ、小学生の頃とかだと、演劇を見る機会はあんまりないですが、やる機会ってのはあって、その「やる」のが楽しかったんですね。
 ただ、ひとつ大きな問題がありまして。
 小学校のときとか、学芸会ってんですか、学年中の生徒が出る演劇ってのがあって、それを父兄の前で発表するみたいなのがあったんですけどね、その中でも主役とか準主役とか、そういう大事な役いくつかは台詞もたくさんあるし出番もたくさんあるんですけど、9割くらいの生徒は無理やり割り振られた台詞が一言あるだけの「その他大勢」だったわけですね。
 でまあ、そんなんつまんないし、やっぱり台詞も出番が多いほうが面白いですから、その他大勢は嫌だったんですけど、じゃあその主役準主役はどう決まるかってと、これがオーディションだったわけです。
 まず「主役やりたい人」を立候補で募り、その生徒たちを集めて先生たちの前で台詞を読んで、良かった人から主役・準主役……と割り振っていく感じですね。
 当然、その枠はたいして多くないので、その座にいられるのは一部、あとはみんないくら立候補しても「その他大勢」に転がり落ちることになります。
 その学芸会ってのは、小学校4年から6年生まで3年間あったんですけども、そういうあれでしたから3年間ともに主役オーディションに立候補することになるわけです。
 でまあ、結論から云えば、一回も主役になることはなく(つまりオーディションに受かることはなく)、さらには準主役クラスも準々主役クラスにもひっかからず、3年間とも「その他大勢の脇役」で過ごすことになりました。
 そうなんですね、上に書いた「大きな問題」ってのは、あたしは確かに演劇は大好きだったんですけど、まったく演技の才能がなかったんです。
 6年生のときの台詞なんかまだ覚えてまして、「二、三十頭はいるな。」というひとことだけ、舞台の上にいられるのも40分近くある中で2分という、これが脇役でなくてなんなのだというアレで、見に来た両親にも「お前の台詞はあの一言か」と笑われたもんです。で、いまでもそんなことを覚えてるくらいですから、むちゃくちゃ悔しかったんですね、それが。
 中学生のときは、割とろくでなしブルースな生活をしていたのであんまり演劇とかって方向には行かなかったんですが、上にも書いたとおり鴻上尚史さんの本に出会ったことで、再び演劇熱が再燃してきます。中学校にも演劇部はありましたけど、女の子しかいない部活で、なかなかここから入部するのは気恥ずかしくて悶々としたまま3年間を過ごしました。
 そんなんでしたから、高校に入ったら是非とも演劇部に!という気持ちだったにも関わらず、部活自体がなかったわけで、そこに対する情熱みたいなのが部活創設にまで至ったわけなんですけども。
 5人しかいない部だったんですが、そこで演技練習などをしていたところで、顧問の先生に「(5人の中で)お前が一番ヘタだな」と云われ、あたしには才能がないのであるなと小学生以来改めて思い知り、そこからは部の台本を書いたりとかして過ごしていたわけです。
 尤も、あたしと実際に話したことがある人ならわかると思いますが、あたしはむちゃくちゃ早口で、普通に喋ってても聞き取りづらいって云われるくらいですからね、演技とかとは逆ベクトルもいいとこですから、そりゃそうだよなあとも今になって見れば思うんですが。
 まあ、それで台本を書いたりみたいなことが新しくできたのはそれはそれで面白かったですけど、やっぱり本質的に演劇を味わうというか、舞台に立つという面白さも味わいたかったよなあとは思うわけです。
 というような思い出話なんぞしつつ、つまり何が云いたいかというと、やっぱりあたしだって「主役になりたかった」んですよね。
 スポットライトを浴びて拍手を浴びるきらびやかな存在ってのは、平々凡々な人生を送る中、かりそめの舞台の上でもせめて主役になりたい、みたいなことは往々にしてあったわけですよ。
 ところが、皮肉にも大好きだった演劇を通して「あたしは主役にはなれない」ということを知ることになってしまい、そこからなんだかいろんなことが変わってきたような気はしています。
 演技に限らず、それ以外でもやっぱり「主役」を目指して生きてきているのは変わらず、とにかく何かしらスポットライトを浴びるような存在になりたいと思って生きていたわけですけど、結果としては仕事も派手なスポットライトの裏側の人になり(それは別に後悔してないですけど)、人生の中でスポットライトを浴びて輝くようなことはまったくないままたぶん終わるんだろうな、というのが35歳を過ぎてなんかわかってきてしまいまして。
 いまでは、その「脇役」の大切さもわかるし、いわゆる「名脇役」になりたいという気持ちは強いですけど、でも正直なことを云えば、まだ「主役」に対する憧れもないわけではありません。人生ってのは、などと大きなところから見つめるまでもなく、それはもうそういうものでしょう。
 主役ってのは、なんてんでしょうかね、一挙手一投足をいろいろな人がちゃんと見てくれる存在じゃないですか。どんなつまんないことでもいろんな人に注目される存在っていうかな。
 ツイッタとかミクシとかブログとかなんでもいいですけど、ツイッタで「カレー食べました」だけでも山のように返事がきたりとか、ブログで「カレー食べました」だけ書いてカレーの写真かなんかあげとけば「美味しそうですね!」みたいなコメントがつく、みたいな。そういうのがある意味で主役の輝きですよね。
 あたしなんかだとそんなんやったところでだからどうしたってなもんですしね、そりゃここもそうだしブログとかミクシの日記なんかでもコメント0あたりまえですし、あまりに「コメント(0)」が並んでて誰も見てねえんじゃねえのか的な意味でいっそのこと清々しいっていうかそれだからこそある意味もう好きなこと書いてるところはありますけど、それがたぶん主役と脇役の違いなんだと思うんですよ。まあそのなんだ、演劇でも脇役になり、人生においても脇役を歩いてしまってるわけですな。
 ああいや誤解してほしくないのは、別にここもそうですしツイッタとかブログでコメントくれとかそんなことを云ってるんじゃなくて、そんなもなやる人がやりたいときにやりたいだけやりゃいいだけの話なんで無理にやってくれとか云うようなことではないんであってだね、そんな目先のことではなく、そもそも根本的に生きていくうえでの脇役っぷりがもうなんとも寂しいっていうかそういう話なわけですよ。
 なんかなんだろうな、結局さ、こういうのって、小学生とかがクラスで居場所を探すのとおなじで、勉強ができない子が運動がすごくできたりすると、少なくとも体育の時間は主役になれるわけですし、勉強も運動もだめだけどクラスのみんなを笑わせるのが得意みたいなやつはそういうときに主役になれるわけですよね。
 昔は、そういうのをなんにももってない奴はそれこそ物量に頼るしかないわけで、ビックリマンシールを大量に持ってるとかファミコンカセットをいっぱい持ってるとかそういうことで主役になってたわけで、それが今ではきっと携帯電話ゲームの課金を推し進めてるんだろうなあみたいなことは以前にもここに書きましたけど、まあそういうことですよ。
 そういうことからすればね、まあ客観的に考えれば、絵がうまいとか文章がうまいとか楽器が弾けるとかそういうあれでもない、35歳童貞のサラリーマンのおっさんが主役になれることなんかあるはずがないわけなんですけど、じゃあ名脇役になろうとしても、人生において名脇役でいるってことは、舞台の中心で輝き喝采を浴びる主役の横で、喝采ももらえずスポットライトも浴びず、だれにも目に留めてすらもらえずにそれでも生き続けるという、忍耐力と精神力が要ることなんでありますなあ。

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