03/15「感性論」

 ということで、前回は35歳童貞のおっさんの愚痴という、100人に「この世の中で興味のない文章はなんですか?」と訊いたら99人が前回の文章であると答えるような誰も読みたがっていない文章を垂れ流したワケなんですけども。その残りの1人マニアックだな。
 まあそのなんてかな、若い時分、とくにいわゆる子ども時代から失ってきたものの中で、いまだにちょっと未練があるというか、失ってしまったことが非常に口惜しいものとして、「子どもならではのセンス」があるんですよね。
 それこそなんだろうな、子どもってあれじゃないですか、それこそ「うんこ」だけで10分間笑い続けられるという素晴らしい脳味噌を持つ生き物ですからね、その中で独特のセンスによって生み出されてきたものってのが多々あったワケですよ。
 「黒歴史」なんて言葉がありますけども、コレは要するに中学生くらいの、こうなんだろうな、いろんな意味で多感というか、世界がすべて自分に敵対しているような感じがするときに生み出されるさまざまな創作物に対して使われることが非常に多いわけですが、それ以前の小学生時代ってことになると、なんだろうな、すくなくとも自分自身に置き換えてみると、「黒歴史」っていうよりも、むしろ「よくこういうことを思いつくなあ」という感心のほうが先に出るわけですな。
 正月に実家に帰ったときに、たまたま昔使っていたノートが発掘されて、それ自体は普通に授業に使っていたものなので昔っからまったく勉強してなかったことがわかるくらいのものだったんですが、その後ろの白紙ページに自作の小説があったんですね。
 いやま、たぶん途中で飽きたんだと思うんですけど、ノートにして3ページくらいのものなのでコレを小説と云っていいものなのかどうかわからないんですが、そのなんてんだろうな、いまもいちおうさ、コミケとか出たりして思い出したように小説みたいなもの書いてますけどもね、それにしたってこんな発想は出てこないよな、と思うワケですよ。
 当時のわたしは『ドラゴンクエスト3』、いわゆるドラクエ3に心酔してまして、将来の夢は、という欄に「ドラクエを作る人」と書いていたくらいで、それは堀井雄二さんとかの仕事であってそれになるのは不可能なんじゃないのかっていうのをいまなら冷静に突っ込めるんですけど、当時はまあそのなんだ、ドラクエ3の世界というのがもう自分が住んでるもうひとつの実世界だったワケですね。
 まあ、当時はそういう人はけっこういたと見えて、今もテレビなんかでよく云われる「現実とゲームの世界の区別がつかない」子どもが全国各地に出没したらしく、と云っても「ドラクエ」ですからね、別に殺人事件を起こしたりとか鋼の剣を持って街を闊歩して銃刀法違反で捕まるとかそういうことはなく、ずっと部屋にこもってゲームをやり続ける子どもが出てきた、みたいな程度だったんですが。
 ただ、わたしは自分の部屋にテレビがあるような環境になく、家に一台しかないテレビで、さらに限られた時間しかファミコンを許されていませんでしたから、そういう「ずっとこもりっきりで」みたいなことにはならなかったんですけども、そのぶん自分の部屋でも書いたりできる小説とか漫画とかそういうものに向かったワケですね。
 だからもうなんだろうな、そこで産まれてきたものってのは、あらゆる欲望とかリビドーとかそういうものをぜんぶぶつけた代物だったワケですよ。
 そういうアレですから、この小説では主人公が「ドラクエ」の世界に入りこむ、みたいな設定らしく、しかもだな、それで自分が勇者になって冒険をするとかっていうんならまあそうだろうなあ的な、いわゆる「自分が主人公として登場する痛々しさ」みたいなものもあるんでしょうけどそうですらなくてだね、いわゆるそのドラクエ世界に入り込む主人公キャラはオリジナルの女性キャラでな、その女の子がなるドラクエキャラはいわゆる村人キャラなんだよコレが。村人キャラってのはアレですよ、「ここは マイラのむらです。」って云ってるアレ。
 物語自体はこの村人になったところで終わってたんで、この先についてこのときにあたしが頭のなかでどういうプロットを切っていたのかぜんぜんわかんないっていうか覚えてないんですけど、まずそのなんだろうな、ラノベとかそういうものに一切触れてない段階で主人公を女性キャラにしてるあたりになんとも云えないスケベ心を感じるみたいなところはあるんですけどそれはともかくとしても、いまのあたしが同じテーマでプロット切っても、「村人になる」という設定はぜったい思いつかないと思うんですよ。なんかなんだろう、世界を救う勇者にはしないまでも、それの仲間とかにしちゃうと思うんですよね。
 そういう柔軟な発想力かつ適応力ってんですか、そういうものってのは、それこそ高校生くらいからかなあ、「世界とはこういうモノである」という常識が植えつけられて、社会に出てしまえばその常識のほうが強くなりますからね、絶対出てこないモノじゃないですか。
 考えてみればそういうのっていくらでもあって、当時だと遊びかたひとつとっても、ある程度制約があるなかで既存のものにアレンジを加えたりとか、あるいはまったくオリジナルの遊びを考えたりとかもしてたワケですよね。
 たとえばドッヂボールがやりたい、と思っても場所がない、人も4人くらいしかいない、ってコトになったとき、じゃあドッヂボールあきらめてべつのことしようじゃなくて、ドッヂボールのルールを勝手に変えて4人で楽しめるようにアレンジしてしまうワケですね。
 あたしが小学生時代を過ごしたのは、東京でもはじっこのほうで、学校まで40分歩いて通うようなはっきり云って田舎でしたから、なんだろうな、田んぼや畑はいっぱいありましたけど大きい公園なんてありませんでしたし、土地はいっぱいあった割にそのままできる遊びってのがえらく少なかったんですよ。缶蹴りとかは山のように隠れる場所あったんで簡単にできたんですけど、野球とかはそのままではできなかったんですね。
 だから野球でもドッヂボールでも、そこに適応したルールを作って遊ぶという、そういう適応力がすごいじゃないですか。ないなら作ればいい、というその精神見上げたもんです。
 んでな、こういう話からだと、だいたい「それに引き換えいまどきの子どもはそういう場がなくなって」みたいな話に繋がりやすいんですけど、そうじゃねえと思うんですよね。いまどきの子どもは確かに情報も簡単に手に入るようになったしお金もあたしが小学生の頃よりはたくさん使えるんでしょうけど、それだってやりたいことがなんでもできて、欲しいモノがなんでも手に入るほどにはなってないと思うんだよ。
 つまりさ、結局のところ、あたしが小学生のころとカタチは違うんだろうけど、いまどきの子どもはいまどきの子どもなりに制約のなかでいろいろ工夫して生きてるんだとは思うんだよな。子どもなんていつの時代もそういうもんだと思うんだよ。ないならないなりになんとかする、みたいな。
 ただまあ、あたしが小学生の時分にも、お金はいくらでもありますなんでも買ってもらえますみたいなスネ夫みたいなやつはいたので、そういう人ほど「物事に工夫をしないまま育つ」のは変わんないでしょうから、相対的にそういう人が増えているのかもしれない、というのはなんとなく伺えますけどね。でもその中で、貧乏だったり親が厳しかったり、いろんな理由で制約の中で遊ばざるを得ない子どもたちは、やっぱり今も想像力豊かに遊んでると思うよ。
 なんかわかんないけどもさ、あたしの場合はその頃小説とか漫画とかを描いてたわけなんですけども、そのなかでは上に書いたみたいないまじゃ絶対思いつかないよソレ、みたいなアイデアもいっぱいあったと思うんだよ。今になってみればそういうものって取り戻そうとしても取り戻せないものだしさ、なんかもうすごくもったいないよな。
 まあ、そういうワケだから、もしこれを小学生中学生くらいのひとが読んでたら、そういう感性は大切にな。適度なバランスをもってそういう感性を失わないまま大人になれれば社会に出てもすごくいい仕事ができると思うよ。そして子どもがこんなサイト見にくんな。帰れ。
 しかしこの「黒歴史」ってやつさ、あたしなんかだとまだノートとかワープロのデータフロッピーとかだからまだどうとでもなるんですけど、中高生くらいでそのなんだ、ナントカ動画みたいなので生放送なんかやったりして、挙句の果てに「歌ってみた」かなんかやったりしてるのなんかもうアレだぞ、10年後には絶対見られねえぞ。しかもそれが全世界に拡散されてるってのがまたどうにもならんよな。まあがんばれ若者。10年後に布団の中で悶えるがいいさ。
 しかし冒頭の小学生の頃に書いた小説は続きを書いてみたい気がするよね。確かに、勇者たちが行っちゃったあとでも、そこに住む村人たちの生活ってのはあるはずだものな。

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