09/04「おっぱい論」

 ということで、おっぱいだと思うんですよ。おっぱい。
 もうね、小学校時代なんてあれじゃないですか、うんこちんこあたりのワードは無条件に笑いを誘う言葉なわけで、困ったときにうんこちんこじゃないですか。たぶんあれ一回云うごとに偏差値が1下がってたと云われても納得できるくらいの頭の悪い話なんですけども、それでもやっぱり子どもたちはうんこちんこと云う甘美な響きに夢中なわけですよ。
 ところがですよ、ある一定の年齢を超えると、この魔法がとたんに解けるわけです。まあ中にはそのまま大きくなる人もいますけど、たいていはふと「うんこ」という言葉が面白くなくなるときが来て、ああぼくはもう大人になってしまったんだねとピーターパンのミュージカルに出てくるウエンディみたいなことを呟いてみたりするわけですけど、そんな中でも通して輝きを失わない言葉が「おっぱい」なわけです。
 昔から、「「いっぱい」の「い」を「お」に変えて云ってみて」「……おっぱい?」「「おっぱお」だよーん」みたいな、今考えればなにがしたいのかさっぱりわからない言葉遊びなどに興じていたりして、その響きとともに、どこか照れくさくそれでいながらなんとなく輝いている言葉として扱われているわけです。
 乳房を意味するこの言葉、ある意味ものすごく偏差値の低そうな響きの言葉であるにも関わらず、なんかこうすごくナチュラルに使われているというアンバランスさに驚愕せざるをえず、たとえばテレビなんかでは「うんこ」は「大便」に、「ちんこ」は「性器」とかそういう云い替えがなされることが多いのに対し、「おっぱい」は「おっぱい」のままであることが多いと云う、これをフリーダムと云わずしてなにがフリーダムか、ということであるわけです。
 これはそもそも、おっぱいが単なるおっぱいでなく、おっぱいそのものの存在意義とでもいうべきものが、おっぱいという記号を超えて男性たちにとってフェミニンそのもの対象であり、おっぱいそのものが非常にシンボリックかつ肯定されるべき素材であったということに尽きるでしょう。なに書いてるのか自分でもわかっていないので読み返す必要はありません。
 そもそもですね、こんなに公共の場で堂々と「女性の場合、おっぱいは大きければいい」ということが肯定されているものということが異常なわけですよ。
 顔が不細工とかなんとかですら、堂々と「不細工よりイケメンがいい」とか女性の芸能人あたりが云ったら好感度下がりそうなもんですし、ましてや「ちんこは大きいほうがいいですよね」なんて云ったらある意味ちょっとした放送事故ですけど、おっぱいだけは「大きいほうがいい」と男女どちらが云っても大勢に影響なく、さらにそれが当たり前のこととしてまかり通っているわけです。
 顔の造形と同じく、おっぱいの大小なんてこんなものは自分の努力とかそういうものでどうにかなるような類のものではないわけじゃないですか。そういう意味では本来非常に差別的なわけです。ところがそれが普通に「大きいほうがいい」ものとして語られていると云う、この状況もある意味ものすごくフリーダムなわけですよ。そのかわり小さいのがいいと云うと即ロリコンの称号を受けかねないあたり実に不条理と云わざるをえません。
 それだけオープンに語られているにもかかわらず、そのくせおおっぴらに見せちゃいけないなどと本当にわけがわからない。しかも駄目なのは女のものだけで男のものは別に見せてもかまわないという、もはやそれはどういう意図でそうなっているのだと疑問のひとつもいだきますよ。おなじものなのに。こんなものおっぱい以外にないですよ。まあ確かに価値観として男のおっぱいなどなんの値打ちもないというそういう認識はあるわけで、これはもう本当に不思議なわけです。
 まああたしは小さいほうが好きですけどねというのは、いまでもここを読んでいるような方にはもうわかったよってなもんでしょうけども、云うまでもなくあたしは幼いころの母親のものを除けば見たことも触ったこともないわけですからね、どっちがいいも悪いも本来であれば語る権利はないわけです。もしかしたら触ってみたらすごくいいものかもしれない。そうしたらおっぱいはやっぱり大きいほうがいいよねとか云い出すかもしれない。それ以前にそういう機会がいつあるのかわかりませんけども。
 でもあたしが好きなのは小さいとかそういうことよりも小さいということを気にしてちょっと恥ずかしがったりみたいなそういうシチュエーションであり、なんかよくわかんないですけどもね、なんか海とか二人で行くじゃないですか、そこでなんかちょっとむくれてたりするだもんで「なんだよ、なに怒ってるんだ」「……なんでもない」「なんでもなかないだろ。なんだ、腹減ったなら海の家でまずいラーメンでも」「そんなんじゃないの! ばか!」「……どう考えても怒ってるじゃないか」「……だって」「だって?」「だって、さっきから、ほかの女の子の胸ばっかり見てるんだもん」「……はい?」「そりゃわたしはその、胸なんかすごくちっちゃくて……見たっておもしろくないのかもしれないけど」なんて自分の胸を見ながら落ち込んでいて「……あのな、お前くらいの歳だったらそんなもんだろうが」「……そ、そんなことないもん! 同じクラスの橋本さんなんて、すごい大きいもん! ぼーんって」「橋本さんは橋本さん、まみはまみだろ、そんなもん」「だって……男のひとって、胸が大きいほうが好きだって」なんて云いながら自分の胸に手を当ててみたりなんかして悲しそうにうつむく、みたいなそういうシチュエーションがいいんであって、実質的にどうかはあんまりあれなんですよ。云ってみればマインドの問題なんですよ。えらそうなこと云ってますけどまあ結局は単にロリコンだよね。今気づいたんだけど14歳の巫女さんをお嫁さんに貰うには自分と同い年くらいのご両親に御挨拶に行かなきゃいけないんだよ。
 まあつまりなんだ、おっぱいというその一見甘美なように見えるこの言葉、本当は実にフリーダムの象徴なんだよと。ただそれがゆえにおっぱいを絶対的なものとして見るのは非常に危険なんだよと。意味が解りませんが。
 だんだん「おっぱい」という言葉がゲシュタルト崩壊してきた。

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