05/20「ネット論」

 ということで、なんだかだんだん月二回更新という、昔の「ファミコン通信」みたいな感じになってきましたが、と云ってわかるのはもうあたしと同じくらいの世代だけでしょうけれどもそれはともかく、今回はですね、珍しく不真面目なことを書いてみようと思うんですよ。ほらいつもがいつ『文藝春秋』あたりからオファーが来てもおかしくないお堅いエッセーじゃないですか。もうその真実の暴きっぷりったら、もうこのページか「バンキシャ!」のどっちかってなもんじゃないですか。だからこうなんだ、たまにはこう力を抜いて読める文章があってもいいと思うんですよね。
 だからもう普段とはまったく違ったことを書いてみるのもたまにはいいかなとこう思うわけですよ。いやまあ別にこんなとこ読んでてもせいぜい10人くらいのもんだろうし、好きなこと書けばいいだけの話なんですけども。
 なんかね、こう、ネットでこういう文章を書いているあたしが云うのもなんですけど、このネット狂信の風潮はどうにかならんもんかと思っているわけですよ。
 これは前にも書きましたけど、テレビやラジオや雑誌や新聞の云っていることはまるっきり信じられないけど、ネットなら誰が書いてるかもよくわからん掲示板やらブログであっても信じられるという不思議な人たちというのは存外に多くて、それでもって「マスゴミは」だの「アカ日は」だの云ってる人たちを見ると、なんてか、若ぇなあ、なんて思ってしまうわけです。
 もちろんマスコミがすべて正しいとは云いませんし、マスコミが云っていることを疑ってかかることは絶対的に必要だと思うのですが、それと同じくらい、ネットで云われていることも疑ってみようよ、というようなことは以前も書いたとおりです。
 ただ、ここにきて、Twitterというツールが流行しだしてきました。
 Twitterについてはあたしも使っていますし、その便利さ・気軽さは認めるところではあって、別に個人が好きなことを「つぶやいて」いるだけなら何の害もないんですが、この中にある「RT(リツイート)」という機能がちょっと問題なのです。
 これを説明しだすとTwitterについてのシステム説明から入らなければならないので、Twitterについてのそのものの細かいことはわからない方は調べていただくとして、ものすごく簡単に云えばこの「リツイート」というものは、他人の発言を転載する機能です。
 たとえば、Aさんの「つぶやき」をBさんが見て面白いと思って、これは面白い!ほかのひとにも見てほしい!と思ったら、BさんはそのAさんの発言を「リツイート」することで、Bさんの「つぶやき」を見ている人にAさんのその発言を見せることができます。
 別にそれだけなら平和な機能なのですが、実はこれ、少し考えるとかなり怖い機能だということがわかります。
 先のAさんとBさんの例に、Cさんという登場人物に加わってもらいましょう。
 CさんはBさんの友達で、Bさんのツイッターアカウントを「フォロー」しています(このへんの用語説明については専門ページをご覧ください。まあ、「発言を見られるようにしている」くらいの意味です)。AさんとBさん、BさんとCさんにはそれぞれ面識がありますが、AさんとCさんには面識がありません。そういう状況を思い浮かべてください。
 この状況でAさんが「地震雲を見た。明日東京に大地震が来ます」と「つぶやいた」としましょう。
 それは大変だとBさんはその「つぶやき」を「リツイート」します。問題はそれを見たCさんの反応です。
 もし、CさんがAさんのその「つぶやき」を直接見たとしたら、赤の他人がなにか云ってるわ、くらいのことでなにも思わなかったかもしれません。
 でも、ここに「Bさんのリツイートで見た」という条件を加えると、「知り合いのBさんが云ってるんだから」という補正が働き、Cさんの中での情報の信憑性が高まります。赤の他人から聞かされる情報は信じられなくても、身近な人から聞かされる情報と云うものの力は想像以上に大きいものなのです。
 そんなバカな、と思うかもしれませんが、これは「地震の予知」というオカルトチックな例だからであって、そうでない「リツイート」はいくらでもあります。酷いものになると、「拡散希望」「RT希望」なんて書いて、自ら「リツイート」を促す「つぶやき」すらあります。そうなるともうそれは「つぶやき」ではない気はするのですが。
 で、何かに似てるなあ、と思うと、まさにコレ、昔なら不幸の手紙、最近ならチェーンメールです。
 たとえば、「**というテレビ番組でこのリツイートがどこまで広がるか実験しています。皆さんリツイートしてください」というのを誰かが悪戯でもっともらしく流したとしたら、たぶんTwitterというメディアの気軽さゆえ、その「**」が、そういった危機意識の少ない若い人向けの人気番組であればあるほど、チェーンメールの比ではないスピードで「拡散」するでしょう。
 それくらいならまだたいした害もないからいいのですが、これがたとえば人々の不安を煽るような(そしてそれがゆえに、読んだ人がリツイートしたくなるような)ものだったら、ありもしない嘘の情報が、自分ならではの信頼筋である友人知人、あるいは尊敬する人や好きな人など、自ら選択的に「フォロー」した人から流れてきてしまい、それを見た人がリツイートすることでさらに広がっていくという悪循環が生まれます。
 これの恐ろしいところは、身近で信頼できる場所から情報が流れてきたように「感じる」ために、転載の連鎖が続いても情報の信ぴょう性がほとんど劣化しないことです。
 一般的に、いくらブログや掲示板の情報の信ぴょう性を疑う人が少ないとはいえ、そこにあるものが何次転載かわからない情報ならば、その信ぴょう性はがくんと落ちます。
 が、これには基本的にそれがありません。どこまで行っても信頼筋の情報な「気がする」のです。おばちゃんの井戸端会議の「山田さんの奥さんから聞いたんだけど、田中さん離婚するんですってよ」みたいなものです。
 こうしてさらに「ネットの情報」は真偽を曖昧にしたまま、よりスピーディに人々の合間を駆け巡ることになります。
 実はコレ、ものすごく怖いことだと思うのです。
 実際、Twitterをやっていると、いろいろな「リツイート」を目にすることがありますが、ただ単に「面白いもの」「なるほどと思ったもの」くらいならともかく、内容が重いものになればなるほど、それほんとにそんなに気軽にリツイートして大丈夫か!?と思ったりしてひやひやします。
 これはチェーンメールもそうでしたが、本人はもうまったく悪気などなく、正義感一本でやっていることだから余計に根が深いのです。だってコレ、やろうと思えば簡単にデマを広めることができる、ということですから。
 そしてそのネットで拡散する情報というのは、えてして「マイナスの情報」が多い、というのが、これがまたもうひとつの問題になってきます。
 と、ここから先は、もうちょっとミクロな話になります。
 任天堂の社長が決算説明会で、「今はネットで簡単に『自分が欲しいと思ったゲームを買わないことを決断するための情報』が見つかる」という旨の発言をしておられるわけですが(あ、これの全文については任天堂のWEBページで見られます、と無責任にならないようフォローしつつ)、まさにコレですよね。「自分が欲しいと思ったゲームを買わないことを決断するための情報」というのは、実に上手い表現だと思います。
 たとえば、あるゲームを買おうかどうか迷っていたとして、その人がGoogleかなにかでゲーム名で検索したとしましょう。
 そうするとまず出てくるのはオフィシャルサイト、通販サイトあたりだと思いますが、その中から感想を探し当ててみると、その「マイナスの感想」の多さに驚くことになると思います。もちろん無条件に大多数からほめられている作品もありますが、そのほうが少数でしょう。それを見て、「なんだこのゲームつまんないのか。買うのやめよう」と思うのは自然な話です。
 これは大きくみっつの理由があると思うのですが、まずはその書き手にとって、「つまらない」といって貶したほうが、読む人にとっては面白いから、というのがあると思います。
 これはゲームレビュー(という名前の感想サイト)をやっているあたしにも関連してくることではありますが、特に深く考えるまでもなく「こんなつまんないゲームがあるんだぜヒャッハー」のほうが、文章として面白いものにしやすいのは、経験則から云っても確かです。
 あたしは昔はそういうのに快感を覚えていたのは事実なので云い訳もしませんが、今はそういうのがとにかく嫌だし意味がないことだと思っているので、作品の感想を書くときはできる限り「その作品のおもしろいところ」を探して書くようにはしています。でも、同じ作品の感想でも、「つまらないんだぜヒャッハー」という文章のほうが読んでいる人にとっては退屈しないんだろうなあ、というのは我ながら思います。
 もちろん、本当につまらないと思ったのならつまらないと書くのは自由ですし、わたしだってつまらないと思ったところはつまらないと書くしかないわけですから、それに関しては別にやむなしな部分はあるわけですが、さらに追い打ちをかけるようなふたつめの理由として、なぜかネットでは「おもしろい」と云うのがカッコ悪いという風潮があるようで、「つまらない」という感想が圧倒的に「おもしろい」を上回る、という結果になります。
 これはどちらかというと『ドラクエ』みたいな大作に多い傾向ですが、メジャーなものに迎合するのはかっこわるい、腐してこそなんぼ、みたいなところというのはあるわけでして、まあ、あれですね、そういうのはだれしもが一時期にかかるはしかみたいなもんなのですが、そのはしかを引きづっている人は想像以上にたくさんいるわけです。
 さらにもうひとつ、心理状況として、あるゲームを買う時に「これはたぶんつまらないだろう」と思って買う人はいないわけです。だいたいが事前情報なりお店で見たパッケージなりで「おもしろそうだと思ったから買う」わけですね。
 だから、その人の中で買ったゲームがおもしろいのはある意味で「当然」であり、わざわざネットを使って喧伝する必要はまったくありません。このおもしろさを誰かに伝えたい!と思うのは、それはもうよほどのことです。
 一次的に、この「誰かに伝えたい!」と思ってブログなりなんなりに感想を書くことを「堤防の決壊」と呼ぶことにします。
 ところがコレがつまらなかったと。それでもまたコレを誰かに云いたい!という気分になります。が、この「誰かに云いたい」という堤防の決壊レベルが、「つまらない」のほうがはるかに低いのです。だって、おもしろいと思って買ったのにぜんぜんおもしろくない!ということなわけですから。
 そしておそらくこれが複合的に合わさって、「自分が欲しいと思ったゲームを買わないことを決断するための情報」がネットには溢れているのでしょう。
 マイナスの情報とプラスの情報が合わさってゼロになっていれば、それは「平等で信頼できる情報」たりえるのですが、如何せん今手軽に集められる手段は、ことマイナスの情報に偏りがちになるのです。
 これは掲示板(とくに匿名のもの)になるとさらに顕著で、ここではもうつまらないと貶してなんぼ、誉めようものなら社員の宣伝だとか信者だとか云われてしまいかねないというなんだかよくわからん世界だったりしますから、もうどうしようもありません。
 そう考えれば、その手の「なんでも否定」する人々が、雑誌やテレビの「提灯記事」を非難する権利など本来ないわけですが、「俺らは金を貰っているわけではない」という自負からなのか、否定するほうが偉いという上の考えからなのか、それは大概の場において正当化されてしまいます。そして、「数の力」で、少なくともその場ではそれが正しいものになり、それを見た人が信ぴょう性あるものとしてそれを信じるという悪循環が発生するわけです。
 実は、つまらないことをつまらないと云うよりも、おもしろいものをおもしろいと云うほうが勇気がいるのが「ネット」というメディアなのですね。現実とはある意味で真逆です。
 数が見えやすいゲームやアニメなんかではありがちな話ですが、発売前の商品に対して「コレは売れないよ」という意見があったとして、それで盛り上がって、とりあえずそこの総意として「これは売れない」ということになりましたと。ところがどっこい、ふたを開けてみたら売れちゃいましたよと。まあ、よくある話ですね。
 で、彼らは、謝りません。それはなかったことにして、別のモノを「コレは売れないよ」と云い続けるのです。
 世の中、ヒットする商品と売れない商品では、圧倒的に売れない商品のほうが多いわけです。そりゃなんでもかんでも売れたら景気もこんなに悪くなりませんて。金周りのよかったバブルの時代にだって売れない商品はあったわけですから、この不況の折には云わずもがなです。
 なので、たとえば10個の新商品が出たら、ヒットするのはそのうち1個かもしれません。それでも多いくらいでしょう。が、その10個全部に「コレは売れない」と云えば、その人たちにとっては9勝1敗なわけです。絶対負けない試合なんですね。
 つまり、ネットで云う「つまらない」「売れない」なんてのは、話半分もいいとこなんですよ。なんの根拠もなく、いち個人が「つまらないと思う」「売れないと思う」と云ってて、そしてそれが同じような母集団の中に集まっているから大衆の代表的意見のようなものになっているだけの話で、本来、ネットというものは、一次ソース以外はまったくもってアテにならないものなのです。
 とまあ、その「アテにならなさ」を、良くも悪くも前回の衆議院選挙が見事に証明してしまったのですが、あのとき騒いでいた当事者たちはもうそんなことすら忘れていることでしょう。
 なにかを調べようとしたとき、ちょっとGoogleで検索して、誰のものかもわからんブログと匿名掲示板とWikipediaかなんかを見ただけで物事を理解した気になったりすることがどれだけ恐ろしいことか、というようなことは、わりと社会に出てみると実感としてわかってきたりもするのですが、鑑みれば自分も学生の時は方向性こそ違えどそんな感じで世間を「ナメていた」わけでして(いやまあ当時はブログもWikipediaもありませんでしたが)、だからこそほろ苦い思い出とともに「若ぇなあ」になるわけです。
 ネットというのは、自分の思ったことを書き連ねるには非常にいい場所です。ただのサラリーマンであるところのあたしのこんな文章が、少ないとはいえ人の目にとまるのも、ネットのおかげですしね。
 ただ、それはあくまでも「信じるかどうかは別問題」であるということを意識して読まないと、結果としてありもしないものに疑心暗鬼になったり、逆にあるはずのものをないことにしたりというようなことになってしまう、ということです。
 もちろんそれは、この文章にだって云えることですから、これを読んで「納得する」か「そんなわけないじゃん」と思うかは貴方が考えて判断して決めることです。貴方にこれを押しつけるつもりは毛頭ありません。
 とにかくわたしも含めて、一億総ヒョウロンカ時代になってきているのは間違いないわけです。
 先の商品のおもしろいつまらないの例で云えば、モノを買ってそれで楽しむという行為の中では、自分が満足できるかどうかだけが基準でいいはずなのに、「他人にとってこれはどうか」という評論「まがい」のことをしたい(本当に「評論」ができる人などそんなに多くはありませんから)人々が確実に増えてきていると。
 それで「つまらない」と云うのはもちろん自由です。ですが、「ヒョウロンカ」である以上、本来そこにあるフラットな目線があるかどうかということを意識しなければいかんなあということとと、そこにある数の力を「真実だ」と思わないようにしないといかんなあ、というのは、これはもう自戒の意味も込めて思ったりするわけです。
 ……というちょっと不真面目な話をしてみました。もうほんとにね、こんなことばっかり書いてると真面目なエッセーのコーナーだっていう説得力がなくなっちゃうなあ困ったなあほんと。

<近況報告>
  • すみませんメールフォームがぶっこわれてました。直したので今度は届くはずです。まあ、誰も使ってなかったとは思いますが。
  • > えっと、つまり……今もやっぱり貧乏というわけですね
     うん。
    > ――年収にしてだいたい5京円くらいあるわけじゃないですか――/この部分、ツッコミいれていいですか?
     いいけどその瞬間に貴方の敗北が決定しますよ?
    > なんかもう人間関係に疲れたよ。
     あたしなんかもうそんなのずっと昔からだぜ!
    > 私は高御さんは結構大きな買い物をぽんぽんするイメージあります。車とか、バイクとか、ドラムとか。
     あれも迷って迷ってえいやって買ってるんですけどね。結構表に出してないだけで、買おうと思っただけでやめたものが山のようにあります。
    > そういえば携帯電話からだと拍手コメントが半角50字しか遅れなくてちょっと困ってます。仕様でしょうか。
     試しに見てみたらNetscapeでも似たような感じでした。ブラウザによるのかも。
    > おだいじに
     どもっす。もうすっかり元気です。
    > PS3のコントローラーが僅か数日で壊れました…流石は中国クオリティ。感服致しました。
     いやまあいくらメイドインチャイナでも日本の企業が関わっている以上クオリティコントロールはされてるでしょうから、割と運の要素も大きいと思うんですよ。ソニータイマーとかないってマジマジ。
    > 『美人過ぎる○○』ってのが流行ってますが、我々も『不幸過ぎる○○』みたいの考えませんか?
     なんか連発しすぎてて「美人過ぎる」という言葉が安っぽくなってて却っておもしろいのでいいんじゃないですかね。でも別に美人がどの業界にいたっていいじゃないかと思うんだけど。
    > カラオケ一人じゃなっかったのですか
     一人で行くのは結構勇気がいるんですよ? もうあたしは二度といいです。
    > kanonのEDの後半のラップの空耳なんでしたっけ。急に聴きたくなってきた♪高崎ノーチェック〜
     ありましたねえそんなものが。もうすっかり忘れちゃいましたが、ネタとしてはちょうどいま似たようなネタを書いていたところでした。

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