「千秋に贈る歌」 -月陽炎-

注:「月陽炎」および「月陽炎 -千秋恋歌-」ネタバレを含みます。ご注意ください。
月陽炎の持つ「物語」
 物語とは、「広大なウソ」である、という考え方がある。
 すなわち、ある一つの世界を作者の伝えるメッセージによって作り上げ、それを受け手の頭の中に再生するのが、物語が究極的に辿り着く場所であるというものだ。一つの世界が完璧に作り上げられたものである以上、メッセージを受け取る側がどんなにリアルに受け止めたとしても、それは「ウソ」でしかないということになる。
 これは半分正解であり、半分は間違いだ。まず、作者が作り上げたメッセージそのものは、真実に相反するものであるがゆえに、それは真実ではない……すなわち「ウソ」になる。この面では間違いではない。しかし、それでは「真なる事実」がどうやって決定されるのかということを考慮してみると、この定理はともすればやや物足りないものになってしまうのだ。
 「月陽炎(すたじおみりす)」。舞台は日本の文明開化、大正時代だ。主人公・悠志郎は、父親の言い付けで小さな片田舎にある「有馬神社」へと出向いた。そしてここで彼は、ある大切な事実を知ることになる――と、導入のあらすじとしてはこんなところだろうか。物語の導入としてはそれほど珍しいものではない。
 しかし、この作品が秀逸なのは、とにもかくにも、この「ウソ」の範囲の広さが、どこまでも深みと広さを持っているという点である。この「物語の導入」から広がる世界の大きさがとにかく尋常ではない。それはシナリオが持つ力だけではなく、音楽、絵、効果音、声、演出、プログラムやパッケージに至るまでの「舞台」が、しっかりと作りこまれているからに他ならない。なんということはない、ウソをウソだと認識させないためには、ウソを真実にしてしまえばよいのだ。
 たとえば演劇を考えてみよう。なにもない舞台でキャラクター(登場人物)が登場して物語を演じる。しかし、それがどんな優れた物語であっても、世界を作りこむには限界がある。アンダーグラウンドな舞台などではそれでもよいが、それはあくまでも、そこからまた新しい別の世界を作り出そうと言う表現の方法にすぎず、それは決して「世界を再生する」ものではありえない。
 そこでこの舞台に、まず小道具を入れてみる。これだけでも世界は変わる。世界にリアリティが出てくるのだ。そしてさらに効果音を、音楽を入れる。ますますそこに作り出される世界に深みが生じる。一つ一つの演出が、受け取る情報の量に比例して世界を広げているのだ。
 ここで一つ疑問が生じる。「リアリティ」を追求するのであれば、舞台に音楽が鳴ったりするのはおかしいのではないか。はたまた、舞台に付き物のダンスや照明効果などというようなものも、現実では絶対にありえないものだ。それは偏に、リアリティからの乖離を意味するのではないか。
 ここが、「リアリティ」という言葉のもつ罠だ。
 「リアル」というのは、「唯一の」とか、「現実に即した」などという意味を持つ。そうして考えれば、確かに嬉しいことがあったときに人はいちいち踊らないし、派手な証明が照らしたりもしないし、いきなり音楽が何処からともかく流れてきたりもしないから、「それはリアルではない」ということになってしまう。しかし、人間はもののかたちや状況を正確に記憶しておくことなどできはしない。それまでの情報を総合的に分析・統合し、それを一つの漠然としたイメージとして脳の中に記憶する。だから、たとえ究極的にリアルなものを提供されたとしても、それがそのイメージとそぐわなければ、それはその人にとってリアルではない。人が行ったこともない田舎の風景にどこか故郷の匂いや日本の古里を感じるのも、それが「作られたふるさとのイメージ」と、その人の持つ「ふるさとのイメージ」が合致したからこそであるのだ。そういう意味ではこれはリアルではないが、その人にとってはこの上ない「リアルな風景」であるということになる。
 だから、演劇でダンスを踊ったり、照明効果を使うのも、ここで云う「リアル」のイメージを再生するためなのだ。嬉しい、と感じたとき、人はそれこそ比喩にでもあるが、踊りだしたいような気分になって、まわりがぱあっと明るく見えるだろう。しかし当然、それはその人の頭の中でのみ再生されたイメージが見せた風景でしかないのだから、その人にとっては「リアル」でも、他人から見れば「リアリティを欠く」ことになってしまう。しかし、演劇は逆にこれを利用するのだ。照明や音楽、ダンスを見せることで、擬似的な「嬉しいときのイメージ」を、受け手の中に再生してしまうのである。これは事実ではもちろんないが、事実として受け手の中に再生される。これがすなわち「ウソを真実にする」ということだ。
 だとすると必然的に、それには舞台の秀逸な設定が必要になる。物語を面白くするか否かは、極端な話舞台裏を……つまり、「ウソである」という事実をいかにして隠すかにかかっているのだ。
 「月陽炎」は、この舞台設定がとにかくよく練りこまれている。我々は大正時代に生きてはいないから、これを「リアル」として受け止めるのは絶対的に不可能だ。そうすると、我々の中にある大正時代のイメージを、舞台でうまく再生してやらねばならないということになるのだが、とにかくここにぬかりがない。
 たとえば物語の導入部。どこかうら寂しい曲をバックに、旅路を描く一つのシーンだ。ここで物語の動機が語られるわけだが、既にこの時点で「なにかがある」という予感を確かなカタチへと変えてくれる。そこへ鳴り響く汽車の汽笛……ここで我々は、既に舞台へと引き込まれている。舞台が現実へと変わりつつある。それは一つ一つの文章が生み出す結果でもあるし、音楽が生み出す結果でもあるし、タイミングよく入ってくる効果音の生み出す結果でもある。漂う寂しさや不安、そしてこれから起こるであろう哀しき未来を暗示するかのような、美しくも寂しい景色が眼前に広がるのだ。「考えた結果」ではなく、自然とそこに浮かぶ景色が確かに存在するのである。
 たとえば日常。神社に着いてからしばらくの日常は穏やかで、悠志郎にとっては騒がしくも平和な日々だった。それがとにかく幸せだった。その「幸せ」が見事に描かれる。美月が鈴香に怒られて、それを柚鈴が苦笑しながら見ていて……という一連の景色。それを見ることができることが本当に幸せなのだと、舞台から「感じる」ことができるのだ。こういった日常描写はムダだと云う人もいるのだが、決してそんなことはない。日常描写というのは、世界を作り出す上ではなくてはならないものだ。日常が1の割合に対して非日常が9でも、物語としては成立する。しかしそれはどこか落ち着かない。なぜか。実際のわたしたちの生活にあるのは、ただ日常だからだ。そこにちょっとした幸せを盛り込んでやることが、物語の中での「リアル」へと繋がっていくのである。
悠志郎というパースナリティ

 この「月陽炎」、エッチゲームにしては珍しく、主人公の名前の変更ができない。「悠志郎」で固定になっている。
 もちろんこれには女の子たちが主人公の名前を声付きで呼ぶから、という理由もあるだろう。確かにこれがクリアできない以上、「音声」と「名前変更」というのは決して相容れないものだ。それはヘタをすると、せっかく作り上げた世界を破壊してしまうものになりかねない。
 しかし、この作品において、「名前の変更が出来ない」というのは、おそらくそれ以上の意味があってのことなのではないかと思うのだ。つまり、この作品の主人公は、「悠志郎」ではなくてはならない理由があるのである。
 まず、名前を変更することが出来る作品を考えてみよう。それはつまり、ディフォルトネームというのが便宜上決まってはいるものの、基本的には主人公=自分自身であるという法則があるからだ。中には自分のオリジナルの主人公キャラクターを作ってその名前を入れるなどという人もいようが、やはり「名前の変更が可能」の意図するところは、「主人公をプレイヤー自身にするためのお膳立て」ということになろう。そこでは、ディスプレイの中とこちらの世界は繋がっている。モニタの中に主人公が出てくることは基本的にはあってはならないことだし、視点は自分自身から見たものになる。
 対して、名前が固定されている作品の場合はこうはいかない。主人公はあくまでも「悠志郎」という一人の男性であり、ディスプレイのこちら側にいるわたしではない。確かに悠志郎の行動は、「選択肢を選ぶ」というカタチで「わたし」が制御することが出来るが、しかしそれでも「わたし=悠志郎」ではありえないのだ。ディスプレイのこちら側と向こう側の世界は、完全に隔離された世界なのである。
 ここで「ゲーム」というものが、「主人公の視点の取り方」によって二種類に分かれるということがわかる。一つ目が先の「主人公=プレイヤー」タイプであり、もう一つが後の「主人公=キャラクター」という分類だ。
 何もこれは、「主人公キャラに名前を設定できるか」ということだけでそれが決まるのではない。たとえば、Keyの「Air」は後者である。あの作品の主人公には「国崎往人」という名前が設定されているが、しかしそれはプレイヤーによって任意に変更することができてしまう。しかし、同じKeyの「Kanon」は、同じように名前も変更でき、間違いなく前者だ。この分類は、その主人公キャラクターに、一己のパースナリティが与えられているか否かという一点において決定されるがゆえに生じるのだ。
 たとえば「Kanon」を見てみよう。あの作品の主人公には、相沢祐一という名前が与えられている。しかしこの名前は、プレイヤーによって任意に変更することができるということは先にも述べた。やろうと思えばこれを自分自身の名前にすることもできるし、また、好きな芸能人の名前をつけることも、内閣総理大臣の名前を付けることもできる。
 ここまでは「Air」でも同じだ。あの作品の主人公に与えられた「国崎往人」という名前は、プログラム上ではあくまでも暫定的なものでしかない。変えようと思えば変えることが出来るし、また、製作者側もそれを承認している。
 しかし決定的に違うのは、Kanonの場合はプレイヤーキャラの名前を変更しても物語が破綻しないが、Airでは物語に軋みが発生するという点だ。それは、Kanonの相沢祐一というキャラクターは、あくまでも「入れ物」として存在しているのに対し、Airの国崎往人は、一人のキャラクターとして設定されているが故に発生する現象である。
 相沢祐一にはオフィシャルに細かい設定が存在しない。どんな外見か、どんな人となりか。そういったキャラクター性が一切存在しないのだ。無論、物語に必須になる境遇(両親の都合で一人で引っ越してきたなどという状況)は設定されざるを得ないし、また、その喋り方や回りのキャラクターたちに対するやりとりから、凡そ製作者側が意図した設定を伺い知ることはできる。が、それはあくまでも「相沢祐一である必要性」を要するものではないのだ。それが相沢祐一ではなくても、プレイヤーであってもいい。好きな芸能人であってもいい。プレイヤーが想定したまったく別の架空のキャラクターであってもいい。そこにある性格設定がないが故に、どんな人物に置き換えることも可能になるのである。実際に自分が居る世界と同じ視点で世界を再現しているが故に、「世界を構築する」上にあっても世界を破壊するものではない。
 これが例えば、水瀬名雪というキャラクターに対して行われていたらどうなるだろうか。つまり、水瀬名雪というキャラクターに詳しい人となりが設定されておらず、プレイヤーによって可変であるとするのだ。この瞬間、世界は崩壊するというのはおわかりいただけるだろう。とにかく世界の中に自分が居る感覚が発生せず、そこはただ何も見えないぼやけた漠然としたイメージが広がるだけに過ぎない。実際に自分が居る世界では、自分自身を見ることは出来ないが、それ以外の景色は全て見えるのだ。ここがヴァリアブルである世界は、もはや世界ではありえないのである。
 国崎往人というキャラクターを「一己のキャラクターとして確立している」Airの場合、プレイヤーキャラである主人公に対してこれが当て嵌まる。国崎往人という人物には(物語の必要性もあって)細かいキャラクター設定が為されている。外見は云うに及ばず、性格も境遇も、彼の運命に至るまですべてが決められており、「国崎往人」というキャラクターを形作っているのである。ここが相沢祐一との大きな相違点であろう。このキャラクターを「自分自身」や「架空の別のキャラ」に置き換えることは本来できないのである。ここで「国崎往人」という名前を変更することは、「名前を変更する」ということ以外には意味を為さない。ほかのキャラクターへの置き換えを許してはくれるわけではないのだ。
 「月陽炎」にあっても、それは適用される。「悠志郎」という名前をもし変更することが出来たとしても、それは「悠志郎」という名前を自分の名前と「たまたま同じである」こと以外の意味を持たず、悠志郎とプレイヤーである「わたし」との入れ替えを可能にするものではありえない。
 「主人公=プレイヤー」の作品は、その作品が描き出す世界を、自らの視点で楽しむことができることができる。ここには決して神の視点は存在し得ない。プレイヤーが知っていることは全て主人公が知っていることでなくてはならず、逆にそれ以上のことを知っていてはならないのだ。
 対して「主人公=キャラクター」のタイプを持たせると、作品のプレイヤーからの視点は「神の視点」になる。無論、プレイヤーが動かしているのは「主人公というキャラクター」なわけだが、それはあくまでもプレイヤーではないのだから、そこから見えてくるのは「物語そのもの」だ。どちらかと云えば本や映画、演劇の世界に近い。もちろん、作り出された世界そのものを楽しませるのはこちらのタイプにしても同じことだが、その楽しませ方は、眼前で繰り広げられる出来事をより真実として見るための世界作りに専念せざるをえなくなる。
 この「月陽炎」は、この特徴を巧く生かした上で世界を作っている。まず大正時代の秋の景色を作り出す。そしてそこに、わたしではない「悠志郎」から見た視点で物語を繰り広げる。ここでは「主人公」というのは、最早便宜上の意味でしかない。主人公は柚鈴でも美月でも鈴香でもよかったのだ。
 恋愛を描く上でこのタイプが難しいのは、プレイヤー=主人公ではない以上、そのキャラクターと結ばれるのは「わたし」ではないという点であろう。例えば、どんなに柚鈴が可愛いなあなどと思って目出度く柚鈴と悠志郎が結ばれたとしても、柚鈴の隣にいるのは「悠志郎」であって「わたし」ではないのだ。この作品の場合、一人一人のキャラクターの書き込みが巧いからこそ、登場する女の子の魅力も深い。それがゆえにどこか忸怩たる思いでいたものである。
 それだからこそ、「悠志郎」というキャラクターは、プレイヤーに心から愛されるキャラクターでなくてはならない。プレイヤーが、柚鈴と結ばれる運命にあった悠志郎を心から祝福できるような状況にあってこそ、作品のハッピーエンドは作られるのだ。
 恋愛をモティーフにしたアドベンチャーゲームを作ろうなどということになると、兎角その対象になる女性キャラは徹底的に魅力的に作りこむものの、主人公のキャラクターはきわめて中途半端な設定しか為されないという例はいくらでもある。これでは、女性キャラが魅力的であればあるほど、その作品のハッピーエンドは印象に薄いものになってしまうのだ。女の子は可愛かったけど、その可愛かった女の子が何処の誰だかわからないやつとくっついた、で終わってしまうのである。
 そこへきて、「月陽炎」の場合は、それを徹底的に回避する方向に動いている。まず悠志郎というキャラクターの設定から、嫌味のない人間的なキャラクターを作り出すことは云うまでもない。穏やかな喋り方も、人当たりが良くてどこか暢気で振り回されやすい性格も、結局は悠志郎という人間を一人のキャラクターとして他のキャラクターと同列にまで魅力的に押し上げているのだ。
 そしてそれだけではない。さらにここに、穏やかな日常描写が加わる。微妙なコントラストを持つ日常描写が秀逸な世界観を描き出していることは先にも述べたが、それ以外にも、「悠志郎」という人物をプレイヤーに一己のキャラクターとして認知してもらうために一役買っているのだ。だから悠志郎は、日常においてとにかく自己主張をする。暗いところが怖いと云っては怯え、美月が寝ていれば起こしに行って鈴香に怒られるし、柚鈴が休んでいればわざわざほっぺたをつつきに行く。そういう行動はかつてのゲームの主人公もやっていたことではあるが、それがあくまでも女の子の魅力を引っ張り出すためのキッカケに過ぎなかったのに対して、この作品では、それをひとつのエピソードとして、はたまた悠志郎というキャラクターの魅力として伝えることに成功しているのだ。
 この作りこみが、悠志郎というキャラクターを魅力的な人物にしている。そしてそれが、ひいてはすべての終わりを後味の良いものへと昇華しているのである。
 物語の世界にはいつか必ず終わりがある。しかし、その世界が「リアル」であればあるほど、物語が終わってもキャラクターたちは別の次元で生き続けるものだ。その次元は我々には確かなエピソードとして見ることは出来ないから(これをそれぞれのプレイヤーからの視点で現実に再生したものが同人誌であり、二次創作ショートストーリーである)、この終わりがどこかすっきりしないものであれば、その世界はいつかその人の中から滅びてしまう。しかし反面、印象に残る作品は、その世界がどこまでも続いているような感覚を覚えるのだ。よしんばそれが錯覚であってもいい、世界の余韻に浸っていたいと思う感覚が、どこまでも残りつづけるのである。
圧倒的な哀しさと美しさ

 シナリオ全体や作品に対しての解釈……というものを、あえてわたしはしない。したくはない。それがどれほどの意味を持つかわからないというのもあるが、それ以上に、解釈というものを言葉にすることがわたしにはできないと思っているからだ。無論、作品を自分なりの理解で終結させている以上、何らかの解釈はわたしの中にも存在しているはずなのだが、それをいざ書こうとすると、まずどこから書いたらいいのかさっぱり解らなくなってしまう。だからここにあるのは、決して「シナリオの解釈」ではないことをご留意いただきたい。
 この作品は、シナリオによってその結末が少しずつズレたものになるが、その中で共通して描かれるのは、一つの血が巻き起こした決着である。そこからは必然的に「真」というキャラクターが登場し、この「真」と柚鈴や美月、葉桐や悠志郎との係わり合いが肝になってくるのは云うまでもない。
 一見してすぐにわかったのは、この作品はキャラクターに絶対的な「悪」と「善」の区別をつけてはいないという、当然といえばごく当然の事実である。すべてが終わってみたところで、結局、それならば悪いのは誰だったのかといえば、そんなものは誰も居ない。結局、悠志郎たちが闘った「真」というキャラクターが一つの絞りになっているわけだが、それはあくまでも後から作られた仮想的なものでしかないのだ。真も結局は、この運命に翻弄され続けていただけに過ぎないのである。それならば一哉が諸悪の根源なのかといえばこれもそうではない。
 ならばこの物語は、結局どんなテーマを持っていたのだろうか。
 この作品では、それぞれの登場する人物が全員幸せに暮らした、という形でのハッピーエンドは存在しない。誰かの幸せの代償に誰かがいなくなってしまうのだ。そのある人物の消滅が、残った別の人物にとっての幸福の代償になるかと云うとこれは必ずしもそうではない。事実、鈴香エンドのあれはハッピーエンドともバッドエンドとも取れるものであったし、美月の柚鈴消滅手紙エンドにしてもまた然りである。だからその意味では、この作品にはハッピーエンドは存在しない。
 言葉にするのはなかなか難しいのだが、つまりはこの作品のテーマというのは、どうもそのあたりにあるような気がする。日常の仄かな幸せと、その後の過酷な運命。ミクロな視点から見ればテーマはここだろう。しかし、それをもっと大きな世界観そのもので見つめた場合、ともすれば奇妙な云い方だが、この「月陽炎」という作品そのものがテーマになってくる。
 と、これではあまりにも漠然としすぎているので、もう少し詰めてみよう。
 作中で語られる限りでは、まず何よりも重い十字架を背負っていたのは真であった。真の行動原理は、基本的には復讐のそれに基づいてはいるものの、決してただ憎いから殺すなどと云ったようなものではありえない。そこにあるのは、ただ自らを守り通そうとするファナティックな信念でしかないのだ。しかしそれがゆえに、その信念は彼を何よりも強く突き動かしていた。それが自らの存在意義となって、彼に重くのしかかっていたからである。
 ならば、それに対して悠志郎が真っ向から挑み、そして悠志郎に敗れるということが、彼にとってどんな意味を持つのか。ここで真という人物が少し見え始める。真が恨んでいたのは悠志郎でも柚鈴でも美月でもなく、ただその境遇であったに過ぎない。悠志郎は真を「もう一人の私」と呼んだ。その言葉の意味するところは、運命に縛られた真と悠志郎自身を比較してのことばかりではない。
 そういう意味では、真は決して悪役ではないと云えよう。無論、悠志郎や有馬家の人々と仲良く暮らすなどというようなキャラクターでもない。それならば、真というキャラクターの置き所はいったいどこにあるのか。
 つまり彼は、彼なりに自らの行動を清算しようとしていたにほかならない。そしてまたこの行動は、悠志郎がそうであったように、決して過ちではない。ただその結果、自らの信ずるものに対して反逆することになってしまったというだけのことだ。自らの穢れを祓い清めたいと思っていたという、それ以上ではありえないのである。そして無論その上にあるのは、穢れを祓うという自らの存在意義の証明だ。そこに真というキャラクターの持つ、えも云われぬ哀しさがある。
 月陽炎に共通して漂うのは、この哀しさだ。自らの信じるものと引き換えに失うもの。それは悠志郎はもちろん、柚鈴や美月、葉桐や鈴香、そして一哉や真にまですべて存在している。ともすればこの哀しさは美しさへ変わり、そして最後にふとしたときに思い出すような幸せへと変化する。
 わたしは、鈴香エンドの結末が持つ圧倒的な哀しさと、圧倒的な美しさはおそらくそこに起因するのだと思っている。無論、悠志郎と鈴香のあの行動は、いくつも用意されていた道の、おそらくもっとも険しく、そして哀しい道を選んでいることは想像に難くない。それでも居つづけようと思えば、楽しかった思い出のいっぱい詰まった有馬神社に、悠志郎と二人で居つづけることも可能であったはずだ。この時点で、彼らにとってはまわりは存在しない空っぽの入れ物があったに過ぎなかった。そしてそこで、たった二人の見知らぬ子どもに手を振られ、世界は彼らにまだ開かれていることを感じる。
 そういう意味ではこの鈴香エンドは、この「月陽炎」が持つその哀しさと美しさを、もっとも端的に見せた結末である。この、すべてが詰まったようなとてつもない力に、わたしはただ圧倒されるよりほかにはない。
月陽炎という世界

 月陽炎という作品に登場するキャラクターたちは、みなそれぞれに魅力を持っている。無論それはどの作品においても同じことだ。18禁ゲームというカテゴリで考えれば、どんなカタチであれ、登場するキャラクターに魅力のない18禁ゲームなど存在しはしない。が、それはあくまでも「攻略対象としての魅力」であることは往々にしてよくある話であろう。それを否定しはしないが、やはりそれはどうしても印象には残りにくい。
 キャラクターの魅力を描くには、そのキャラクターの設定だけが魅力的であっても足りない。先にも少し触れたが、そのキャラクターが過ごす日常を魅力的に描き、そのキャラクターと自分自身(主人公とプレイヤー両方の意味を指す)の距離を近いものにする必要がある。例えば街で可愛い女の子に会ったとしても、その場ですぐにその人に告白をしようと思う人というのはそうそう多くないだろう。この段階が「設定が魅力的」であるということだ。雑誌などのプレリリース情報でキャラクターの外見や設定が公開された、その時点でいいなあと思うのは、この段階に他ならない。もっとも、これは当然のことで、もしこれでそのキャラクターに対する全てが満ち足りるのであれば、物語など必要とされないはずであるのだが。
 逆に、最初の頃はなんとも思っていなかったけれど、同じクラスだったり同じ職場して長い間近くにいるうちにいつのまにかその女の子を好きになったことというのは経験がある人も多いのではないだろうか。その相手に告白をするかどうかというのはその人によってまちまちであろうが、ここで「告白をしました」という人と云うのは、前述の街で会っていきなり告白しましたという人よりはるかに多いに違いない。それだからと云って成功するとも限らないのだが、それはまあ別の話だ。
 これが「物語」……とりわけ「日常描写」にあたる。近くに居ることがなにより幸せに感じる感覚だ。ここで、近さを描けるかどうかが、そのキャラクターを魅力的にするかどうかが決定される。設定がとにかく魅力的で、外見がいくら魅力的でも、そこで止まってしまった作品は、決して印象には残ることが出来ない。街で見かけた見知らぬ可愛い女の子は、それからしばらくはその子のことが思い出されるくらい印象的であっても、しばらく生活していくうちにだんだんと忘れてしまうものだ。現実ですらそうなのだから、物語の世界ではそれがさらに顕著である(ただし、陵辱系ゲームなどなどといったジャンルではこれは異なる。この場合、設定を魅力的にすることがすなわち世界の魅力に繋がることも多いが、それは作品の目的を置く場所が異なった場所にあるからにほからならない)。
 そこにおいて、物語の進行に必要なエピソードだけを選んで進行させると不足する世界のエッセンスというものが、この「月陽炎」では見事に補われている。シナリオと絵、世界観の演出の全てが融合したときに生まれる一つの結果として生まれてきたものが、おそらくこの魅力に繋がっているのだろう。
家族の居る日常「有馬美月」

 美月はどのシナリオにおいても、もっとも安心させてくれるというか、ほっとさせてくれる。美月というキャラクターが持つ作中では独特の賑やかさもあろうが、それと同時に、美月という人物の周りに居る人間たちが、みな彼女に対して温かいということが上げられよう。
 だが逆に、それだからこそ、美月のエンディングというのは物悲しい。少なくとも有馬家では、美月は家族の温かさに自然に触れることが出来た。そんな日常が、彼女の後ろには大きくのしかかっている。だから、彼女にとって、その家族の中にいる誰かが一人でも失われることは、直接その日常の崩壊を意味する。そしてそれは、彼女自身が普通の人間ではなく、村で起こる怪事件や、有馬神社に伝わる哀しい記憶の結末と関連しているという事実の認知もまた同じことだ。
「…私、普通の女の子だよね?」
 作中には出てこなかったが、オープニングで流れるこの言葉の持つ意味は大きい。普通の女の子……日常の景色の中に溶け込んでいる自分と、どこまでも続くと信じていたその日常が、徐々に崩壊していく。そしてその崩壊は、彼女にとっては世界の崩壊をも意味する。
 だからこそ物語は、「日常」を崩さない結末を用意していた。鈴香も柚鈴もいて、もちろん美月がいて、みんなで笑いあう「日常」のリストラクチュアである。
「おかえり…美月」
「ただいま…柚鈴」
 このやり取りの美しさは、おそらくそこに起因する。そして美月の魅力もまた、ここに詰まっている。
 忘れてはならないのは、美月が決して自らの存在する日常を願ってだけいたのかといえば、それは決してそうではないということだ。美月が願っていたのは、おそらく日常そのものである。だからこそ、自分がいることで崩壊する日常を守るためならば、自分自身を消滅させることができたのだろう。それは決して正義感や自らの運命を呪ってのことではありえない。ただ、柚鈴や鈴香が本当に好きで、そして彼女たちのいる日常が本当に好きだったからこそ、彼女は自らを消し行くことでさえ受け入れることが出来たのだ。あの、美月が小さな体になって再び戻ってきたシーンの「ただいま」という言葉の持つ力は、それでもまた日常が戻ってきて、それを柚鈴が日常の中に再び取り入れてくれたこと……つまり、世界が生まれた力だ。宇宙のはじめに、カオスから生まれた高いエネルギーの塊が世界と時間を作り出したように、柚鈴の「おかえり」と美月の「ただいま」は、崩壊した世界を再び日常へと作り変えたのである。
 もしみんなが幸せになれるエンディングをハッピーエンドと云うのならば、美月のこのエンディングは、間違いなく数少ない(あるいは唯一の)ハッピーエンドだ。前半部の底抜けに明るく、楽しげな日常が描かれるからこそ、このエンディングの持つ意味は大きい。
 蛇足ながら、この「月陽炎」に登場するキャラクターに声をつけている声優さんはみなとても巧いのだけれど、この美月は特にそれが顕著だ。18禁ゲームキャラの声としてはどこか独特で、なんとなくNHKの教育番組にでも出てきそうな雰囲気がある。
美しさと儚さの演出「有馬柚鈴」

 柚鈴の魅力は、なにはなくともその前向きな明るさだ。彼女の境遇は決して明るいものではない。対人恐怖症という大きなカベも、一哉との不和も、そして彼女が持つ過酷な運命も、決して彼女自身が願っていたものではありえない。それでも彼女は、そんなことを感じさせない笑顔を悠志郎に向けている。そしてまた、純粋にまっすぐな心で、悠志郎や周りの人々を思いやっている。恋に対しても不器用で、ただ「好き」という気持ちだけを悠志郎に向けつづける。
 柚鈴が他の作品に出てくる同タイプのキャラクターよりも印象深いのは、そのまっすぐさやひたむきさが、物凄く素直に表現されているからなのではないかと思う。最初柚鈴は、双葉を除く家族以外の全ての人間が近くに寄ることをかたくなに拒絶した。ここから柚鈴の中に入っていくことはできない。柚鈴が悠志郎を迎え入れてはじめてそれは成立するのだ。これはすなわち、悠志郎が柚鈴が許容するコミュニティ圏内へ入っていくことができたということでもある。柚鈴はそのために悠志郎を一所懸命迎え入れようとして、彼のハーモニカの調べをきっかけにそれを達成した。それだけ悠志郎は彼女にとって特別な存在であったし、また、柚鈴にとっても「そうあって欲しかった」のである。
 ただ、こういうまっすぐさや純粋さを強調すると、えてしてそのキャラクターに対してあざとさを感じてしまうことも少なくない。なんだ、狙ってやってるのかというのを見せてしまう……つまり、舞台裏が見えたとたんに、キャラクターは崩壊してしまう。
 だが、柚鈴にはそれがない。あざとさを感じる直前のところで止めているのだ。キャラクターのあざとさというのは、つまるところプレイヤーに対する媚びからくる感情に起因するわけであるが、柚鈴は決して悠志郎にもプレイヤーにも媚びることはない。あの、芋かりんとうを食べている時のイベントでさえそれは同じだ。これはまた微妙な表現しか出来なくて申し訳ないのだが、彼女は悠志郎が(プレイヤーではない)、そして彼女に微笑みかけてくれるすべての人々が本当に好きなのだ。柚鈴の感情は、そこから湧き出してきている。そしてそこから出る行動はすべて一所懸命で、たとえば喋るという行為一つとっても、彼女は一所懸命言葉を捜して、一所懸命に喋る。その気持ちが、彼女の純粋な行動と言葉でこちらに伝えられるとき、わたしは柚鈴というキャラクターに対して本当に愛おしさをおぼえるのだ。このあたりの微妙な表現は、本当に秀逸というよりほかにはない。
 そして同時に、これが柚鈴というキャラクターの大きなポイントになっている。まわりの人々すべてに微笑んでいて欲しいという感情が大きな動力源になって、そこから柚鈴は美月のエンディングの一つである「手紙」エンドへ行き着いた。
 だからこれは当然、柚鈴にとっては自己犠牲ではない。美月が日常を望みつづけたように、柚鈴はみんなの笑顔を望みつづけていた。そのために自らの力を使えるのならば、それは彼女にとってはまったく自然の行動であったのである。ただ、そこに自分の姿がないことが解っていたからこそ、彼女はあの手紙を最後に残したのだ。これはただ、おもちゃを持っていない子どもに、別の子どもが自分の持っているおもちゃを貸してあげるのとまったく同じ感覚だ。そしてこれは、だからこそ、切ない。
 柚鈴はその外見や性格から、どこか吹けば飛ぶような儚さを漂わせている。その小さな体に、めいっぱいの想いを詰め込んで、彼女は生きているのだ。
報われない姉「有馬鈴香」

 結局、彼女は最後まで報われなかった。あの結末をどう取るかは人によってまったく異なってくるだろうが、それでも結局、彼女と悠志郎が選んだのは、「すべてを消してやり直す」という結末であったのに相違はない。それを承知した上で、そしてそれがゆえに、二人は懐かしい匂いの染み付いた有馬神社に背中を向けたのであろう。彼女の幸せな笑顔は「千秋恋歌」にまで持ち越さねばならない。
 彼女はあくまでも気丈だった。それが彼女の強さから来るものであるのかはまた別として、一哉と葉桐という(彼女にしてみれば)他人に囲まれ、柚鈴とたった二人でその重みに耐えつづけねばならなかった現実が、彼女をそうしてしまった。否、そうせざるをえなかった。
 一哉も葉桐も、鈴香や柚鈴を憎んでいたわけではもちろんない。それは確実だ。二人は自らに課せられた十字架を知りつつ、それでも彼女たちと普通に笑いあって暮らしたいという思いが見えていた。それが叶わなかったのは、偏にそこにあった運命があまりに重すぎたからに他ならない。
 とはいえ、他の結末を彼らが簡単に選択できたのかというと、これは決してそうではありえないだろう。なぜならば、これは悠志郎や有馬神社の持つ「真」という人物との確執であると同時に、有馬家そのものが持つ問題であったからだ。最初、悠志郎が鈴香や柚鈴と一哉・葉桐の間にある微妙な隔たりを感じたとき、その隙間を埋めてあげたいと考えた。それはごく当然のことだ。結果的につながりはないとはいえ、彼らは一つの家族としてそこにある。それであるならば、彼らが過去のことで抗う必要性はまったくない。そう考えたからだ。
 しかし、それはあくまでも外から見た視点に過ぎない。家族という、離れようとしても離れられない関係であるからこそ、その溝は深く暗いものなのだ。それは、既に「家族は仲良くすべき」などという一般論でくくってよいものであるはずがない。確かに悠志郎と有馬の血族は因縁を持つものではあるが、しかし有馬家という今そこに存在するひとつの家族というコミュニティにおいては、完全に外部因子なのである。そこへ、「みんな仲良く」などと主張しても、それが長い時間と耐えがたい苦痛を伴うことは、鈴香や一哉自身が誰よりも知っていることのはずだ。
 一哉や葉桐ともっとも関係が深く、そしてそれに何よりも重みを感じていたのは、他ならない鈴香であったはずだ。「千秋恋歌」で描かれる物語はそれを如実に感じさせてくれる。彼女には「家族」という括りは存在せず、ただ一人だけで生きていた。自分がしっかりしないことには、押しつぶされそうな圧迫感をいつも感じていたに違いない。彼女はだれにも頼らない、頼れない状況を自ら作り出し、苦しんでいたのである。
 鈴香の役割は、有馬家においては母親としてのそれだ。無論、母親としての葉桐という人物は存在するが、鈴香にとって葉桐という人物は「同じ家に居る人」でしかなかった。だから、美月のだらしなさを叱り、寂しがる柚鈴を慰める「母親」の役割を、彼女は引き受けるしかなかったのである。もちろん、葉桐は母親としての役割を放棄したわけではなく、寧ろ積極的にその立場に身を起きたかったわけだから、鈴香が頼りさえすれば、彼女もまた一人の娘としていることもできた。しかしそれは彼女の中で、同時に自らの存在意義をも失わせるものであったのだろう。
 結局、有馬鈴香という人物は、最後まで運命が生み出した柵(しがらみ)に翻弄されつづけてしまった。あの船の辿り着く先の地で、おそらく悠志郎は悠志郎ではなくなるし、鈴香は鈴香ではなくなってしまう。有馬鈴香が最後に有馬鈴香であった瞬間――あのエンディングの船出のシーンは、それが故に哀しく、そして美しい。
母親という役割「有馬葉桐」

 彼女は最後まで母親であり続けた。その運命を作ってしまったこと、そして愛娘である美月を生み、結果として彼女を苦しめてしまったこと、すべてを背負い、さらに一哉を愛する一人の女性としてそこにいた。
 この作品において、母親の役割を引き受けているのは鈴香であるということは先に述べた。それは葉桐も同じことだ。しかし、葉桐のそれと鈴香のそれは、言葉こそ同じなれど大きな違いがある。
 母親としての愛情……母性は自己犠牲の上に成り立つ。まず母親は自らの体に子を宿し、体を痛めつけて子を産み、そして育ててゆく。そこには一人の女性としての人格をも覆い隠してしまうほど大きな、子どもという存在がある。それがゆえに母親には母親としての存在こそあれ、一人の人間としての人格が犠牲になってしまう。
 鈴香と葉桐が決定的に異なるのは、この「子どもを産み、育てた感覚」の有無であろう。鈴香には当然それがない。だから、自己犠牲の上に成り立っているその感情を償却することができないでいた。すべてを抱え込み、ただその状況に耐えつづけることしかなかったのである。
 対して葉桐は、一哉という夫を持ち、美月という子どもを産んだ。無論、葉桐にとっては連れ子であった鈴香や柚鈴の存在も可愛いものであったのは間違いない。が、やはりそれ以上に、美月の存在は大きいものであったはずだ。だから、その境遇がどんなに辛く哀しいものであろうとも、そしてさらには自分の娘が、自分が産んでしまった所為で辛い思いをすることが解っているからこそ、彼女はすべてを包み込むことができたのである。そして愛する一哉のために、愛する娘たちのために、自らを自然に犠牲にしていたのだ。それがすなわち、彼女の中にある「母性」の顕れである。
 この作中で、彼女の印象がどうしても薄くなってしまうのは、なにもキャラクターとしての人気が云々などというのばかりが原因ではあるまい。勿論、彼女の物語そのものが、物語の根底を突付くような結論で締めくくられてしまっているからというのもあろう。だがしかし、それだけでは決してありえないように思う。
 彼女には守るべきものがあった。そしてその守るべきもののため、彼女は自らを犠牲にした。
「娘を…愛さない、守らない母は…おりません」
「私は…美月の為ならば…どんな事でも致しましょう」
「余所様の娘を殺める事でさえも」
「愛し…寄り添った人を、殺める事さえも」
 犠牲というのは、何も自らの命の消滅――即ち、「死」のみを意味するものではない。そこには存在の消滅、つまり、葉桐という一人の人格そのものの消滅をも同時に意味する。葉桐にとっては「余所様の娘(柚鈴や鈴香のこととも取れるし、美月のために死んでいった女性たちとも取れる)」を殺すことも、そして自らの愛した人(一哉)を殺すことも、当然辛いことでしかない。だが、その「辛い」という感情すら押し殺して、最後まで美月の母親でありたいと願っていた。それがつまり「人格の消滅」である。
 その意味では、葉桐は自己主張を一切していない。だからこの作品において、葉桐というキャラクターがあくまでも前面に出てこないというのは、演出としてはどこまでも練りこまれた結果であると云う事ができよう。自らの存在を押し出す葉桐というキャラクターが登場した途端、物語は崩壊する。わたしが、葉桐が中心に据えられる「葉桐エンド」で感じた強烈な違和感は、おそらくそこにあったに違いない。
思いは遠くへ「幸野双葉」

 彼女自身のシナリオは、まあ、オマケシナリオ的な扱いというところなのだろうが、この「双葉シナリオ」が双葉にとってどうも残念な結果を齎してしまっているような気がしてならない。これがもしまったく本編と別の場所で繰り広げられるというのならばともかく、本編の一つの選択肢から生じてしまい、さらにそれが「全てクリアした後で無いと見られない」「敢えて「おまけ」であると語っていない」というあたりにこの原因がある。
 彼女のシナリオでの双葉というのはとてつもなくかわいらしい。それはエッチシーンにおいてもそうであるし、悠志郎の役に立とうと必死になるその態度が描かれるあたりもとても魅力的に描かれている。が、それ以上に、本編の彼女が魅力的なのである。
 彼女の初登場は、有馬神社の境内。柚鈴と二人で話をしているところへ悠志郎がたまたま姿を見せ、柚鈴に逃げられてしまったところで二人になり、人懐っこく話し掛けてきたのがこの双葉という少女だった。いいところのお嬢様で、探偵と帝都に憧れるこの少女は、悠志郎が帝都から来たと知るや、さらに激しく彼に興味を寄せる。
 この設定が、本編の中で生きていればなあ、と思ってしまうのだ。
 彼女は明らかに、有馬の家の賑やかさに憧れていた。裕福な家に育ち、恵まれた境遇でありながらも、彼女は祭りに追われる有馬の家から無関係であることに、明らかに寂しさを覚えていた。少なくとも今、この場所に自分が居る場所がないということに気が付いてしまっていた。
「でも柚鈴ちゃんも美月ちゃんも悠志郎さんもみんな忙しそうなので、ちょっと残念です」
「悔しいなあ…私にはこれくらいのことしかできることがないんですもの……」
 双葉のこの言葉は、さらりと流すには余りにも大きい。「残念」な理由が、単にかまってもらえないから、などという単純な理由でないことは後の台詞からも明白だ。探偵になりたいといってもまわりの人間は一笑に伏される。云うに云えないもどかしさを感じていた少女にとって、自分自身の存在が置いてけぼりにされてしまっている状況は、「残念」であり「寂しい」のだ。だからこそ、その後、悠志郎の「来年は社務を手伝ってみては」という申し出に、双葉は嬉しそうに頷いたのである。
 双葉という少女を語るには、ここが大きなポイントになってくる。有馬神社という場所は、彼女にとってはもうひとつの家のような場所であった。そこに行けば柚鈴が居るし悠志郎が居る。「楽しい」という感情以外にも、一つの安息を得られる場所でもあった。だからこそ、その場所で「客として」祭りに参加している自分は、結局のところ有馬神社というコミュニティの括りには入ることはできないのだ、という寂しさを感じたのである。
 有馬の家から無関係である以上、双葉がこのシナリオの中に入り込んでくるには、サブシナリオ的な手法をとるしかなかったのであろうが、それでも、それまで有馬神社に流れる血と闘ってきた悠志郎を、いきなり「彼は秘密裏に派遣された探偵です」などと云われても困ってしまう。最後までちぐはぐなまま終わってしまい、結局双葉という少女が、どうしてもオマケキャラ的に映ってしまうのだ。これはキャラクターが悪いのでも、シナリオが悪いのでもない。ただ、「そういうシナリオを入れなければならなかった」ことが引き起こしてしまった悲劇であろう。
 本編での彼女は魅力に溢れている。ただ単に「いい子だ」と云ってしまえば簡単なことだが、それだけではない。くるくる変わる表情の裏側に、果てしない優しさがある。柚鈴を神社の外に連れ出そうとしたとき、柚鈴と同じように喜び、なにより柚鈴のことを思っていたのは双葉だった。外の世界にあるライスカリーや芋かりんとうを柚鈴にも見せてあげたい。食べさせてあげたい。柚鈴には双葉が必要だったし、双葉にはまた柚鈴が必要だった。
 そんな二人の関係に、わたしは羨ましささえ感じてしまう。
千秋恋歌によせて

 月陽炎という作品は懐が広い。楽しむという視点からすれば、決して難解すぎない物語がすんなり受け入れてくれるし、キャラクターが可愛いというそれだけを残そうと思えばそれも可能だ。エッチシーンのクオリティや量もかなりのものである。ゲームを構成する色々な要素が、奇跡的なバランスを保って存在している作品なのだ。
 無論、とくにゲームと云うのは個人の趣味趣向が強く出るものであるから、この作品が一概に誰にとっても面白いものであるかといえばそうは云えない。趣味趣向が合わぬ人はたくさんいるだろうし、そもそも、男性を含めて全員フルボイスなのが気に入らないという人もいる。
 しかし、たとえそうであっても、わたし自身はこの物語にとことん没頭することができた。それはなぜか。先に述べてきたような演出、舞台設定、物語などのさまざまな要素があるだろうが、それ以上に大きいのは、結局この作品が作り出した雰囲気の秀逸さにある。
 雰囲気という言葉は難しい。明確なかたちのあるものを指している言葉ではない以上、これの具体例を出すことがなかなか出来ないからだ。
 物語には、必ずその物語独特の雰囲気がある。どんな演出でも決してかなうことがない演出がこの「雰囲気」だ。恐怖の物語には背筋が凍るような雰囲気が、楽しい物語には思わず笑い出してしまいそうな雰囲気が漂っている作品は、そこに描かれるエピソード如何に関わらず魅力的で印象深いものになるのだ。
 この「月陽炎」に漂うのは、どこか遠くの、見たことのない場所に今でも流れつづけているであろうノスタルジーだ。そしてそれは、物語が終わった今でもやっぱり流れつづけている。
 「千秋恋歌」は、対してその雰囲気がやや薄れていた。これはまあ、ファンディスクというその作品の特性を見れば致し方ないところなのだが、物語が物語であることを放棄し、流れの中から外れたところで無理矢理話だけが進んでいくような、強烈な違和感を感じてしまうのである。
 とはいえ、別にシナリオに不満があるわけではない。ただ、本編では、すべてが自然の流れの中にあって、それが日常の枠内に無理なく収まっていた。その流れのテンポが、やや失われてしまっているように感じたのである。鈴香はこんなに可愛いんだぞとか、双葉はこんなに可愛いんだぞとか、どうしてもそこで止まってしまっているように感じてしまうのだ。
 それでも、「千秋恋歌」が物語としてきっちり完成しているのは、やはりとりわけ鈴香シナリオにおいて、二種類の異なる結末をきちんと分けて出し、一方は仮定の結論を、そしてもう一方はあのエンディングに連なる話を持ってきているからなのだろう。あの、有馬神社で迎えた鈴香の笑顔は、間違いなく本編において達成され得なかったものだ。それは「真」という存在すらそこにはおらず、ただあの有馬神社が有馬神社の中だけの問題を抱えていた場合という仮定に基づくものであるから、あの結末が本編で語られてしまっては聊か都合が悪いということになってしまう。それを「ファンディスク」という形で一つの結末として結んだわけだが、これの存在で、少なくとも鈴香という少女は救われたことになる。
 そしてもう一つは、あの本編のエンディングを引くもので、アフターストーリーとして考えればこちらのほうが正当ということになるだろうか。あの、鈴香が鈴香でなくなり、悠志郎が悠志郎でなくなった船出の後、彼らがどうしているのかを知る術は無かった。否、既に、悠志郎も鈴香も、そこにはもういなくなってしまったのだ。ここではないどこかへ旅立ち、そして、彼ではない誰かになったのである。
 しかし、「千秋恋歌」の物語の結末は、悠志郎も鈴香もまだそこにいた。まだ世界は彼らと繋がっていて、そしてそれは、悠志郎と鈴香という二人の人間が、まだそこに有馬神社と繋がっていることをも同時に指し示す。それを見て、わたしはふと安心するのである。
 そしてそう考えれば、双葉のシナリオもまたこれはこれで納得がいく。この「千秋恋歌」では、本編の主たる内容と、有馬神社の出来事を断片として切り離して考えることが出来るからだ。本編の双葉シナリオで感じた違和感は、あの物語が本編と繋がったところに存在していながら、まったく別の状況を与えてしまったことにあるというのは先の双葉のところでも述べたことだが、「千秋恋歌」ではそれが前提として許されているのである。だから、双葉と悠志郎が探偵であるという舞台設定も、決して違和感のあるものではないわけだ。尤も、このシナリオに柚鈴や美月が出てくると、どうも落ち着かない印象というのは多少ないわけではないのだが。

 月陽炎の魅力は、わたしはその美しさにあると思っている。物語が、雰囲気が、音楽が、効果音が、キャラクターが、すべてにおいて美しい。一度見た雄大な景色が、強烈な印象となって頭の中に残りつづけるように、この作品もまた大きな力を持ってわたしに迫ってくる。それは実際に作品を楽しんでいるときは勿論、作品を終えた後でも同じことだ。そしてその瞬間、「月陽炎」という世界が、改めてわたしの前に広がるのである。


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