車輪の国、悠久の少年少女(あかべぇそふとつぅ)

項目シナリオシステム音楽総合
ポイント5−4−3+8+
シナリオ:るーすぼーい
原画:有葉
音声:有
主題歌:有(オープニング:『少年少女よ、大志を抱け』/エンディング:『live』)

<シナリオ>
 『車輪の国、向日葵の少女(以下、『向日葵の少女』)』のファンディスクです。
 ファンディスクと云ってしまうと、やれショートストーリーだ壁紙だミニゲームだとオフィシャルの同人ソフトのノリが一般的だったりしますが、これは『向日葵の少女』のアフターストーリーやビフォーストーリーのみが詰まった、いわば追加ディスクのようなノリのものになっています。そのため、ミニゲームなど遊び要素は一切ありません。
 この作品で語られるストーリーは、『向日葵の少女』でメインのヒロイン扱いになっていたキャラクタ四人のアフターストーリーがそれぞれ一本ずつ合計四本と、『向日葵の少女』で悪役として登場したにもかかわらず人気になった特別高等人・法月将臣のビフォーストーリー、さらに『向日葵の少女』で登場してすぐに殺された女性のビフォーストーリーと、もう一本ギャグ中心の短いおまけシナリオという七本になります。最後の一本はアレなので実質六本でしょうか。まあ、この最後の一本がすっごい楽しかったりはするんですが。
 中でも一番キモとなるのは、この法月ストーリーです。ボリューム的にもこれが一番ありますし、内容が一番凝っているのも必然的にこれになります。
 この作品を語るにあたり、これから話を進めていくのが一番効率的なので、ここではさしあたりこれから触れていくことにします。
 まず特徴的なのは、『向日葵の少女』でもそうでしたが、このシナリオにおいても、「ひっくり返しつづける」ことで物語に意外性を持たせている、ということです。詳しくは『向日葵の少女』のほうのレビューを見ていただければ幸いですが、要するにあちらの文章をそのまま借りれば、「ひっくり返すのをさらにひっくり返して、そこからまたさらにひっくり返して……という連鎖を続けることで先を読ませなくする方法論」です。
 今回もこれが効いています。もちろん、この作品をプレイする人間は、そのほぼすべてが『向日葵の少女』をクリアした人間であるというのはもっとも基本的な大前提なのですが、そうだとすると当然「その方法論も読まれていること前提」での組み立て方になってきます。
 これはちょっと判りづらいのでもうちょっと詳しく触れてみますと、つまり、ある事件が起きました、これで主人公は絶体絶命のピンチに陥りますと。ここで一発逆転をするのが物語における一種のコモンセンスであると思うのですが、『向日葵の少女』では、この一発逆転すら敵の策略であった、でもその策略こそが主人公の作戦であった……という連鎖を作り出すことで、物語に意外性を出していたわけです。
 この仕組みをを知らないで、つまりはじめて『向日葵の少女』に触れた段階では、これは一つ完成された展開論です。またひっくり返るのか!という驚きで以ってストーリーが進むわけですから。
 物語に読者(プレイヤー)が没頭できるかどうかというのの大きなポイントは、ストーリーと読者とどっちが主導権を握るかという一点に集約されます。
 物語主導で、つまり物語がペースを握ってしまえばあとは読者はそれを追わざるをえなくなるわけですが、反対に読者が主導権を握ってしまえば「どうせこんな話なんだろ」と思われながら物語は進められることになります。前者は読者が物語に「ハマる」状態であり、基本的には物語がそこを目指すというのは必然であるということになります(ただし、本題ではないのでここでは割愛しますが、意図的に後者にペースを作らせておき、その中で読者と物語をシンクロさせることで完成させる方法論も存在します)。
 ちょっと話が逸れましたが、つまりはそういうことで、読者を没頭させられる物語を提供できるかどうかというのは、いかにして「物語が主導権を取るか」という方法論の探りあいでもあるわけですが、そういった中で、原始的ながら斬新な方法論で切り込んできたのが、この『向日葵の少女』の「ひっくり返しつづける」「日常の中に謎を隠す」の二点でした。
 後者の「日常の中に謎を隠す」という点についてはとりあえずおいておくとして、前者の「ひっくり返しつづける」方法論は、しかし一度使ってしまうとそのからくりがわかりやすいがゆえに二回目以降の使用が難しくなります。
 だって、ものすごく単純なことを云えば、そのカラクリを知ってさえいれば「疑いつづければいい」のですから。
 たとえばある事件が起きてそれで主人公がピンチになって、でもそれは主人公の考えていた罠で、でもその罠ですら敵が考えていた罠で、その罠も……という連鎖を組み立てるパーツ一つ一つに「どうせ次があるんだろ」と疑っていけばそれで済む話です。
 ですが、この作品ではあえてもう一度同じ方法論を取りました。やはり今回も「ひっくり返しつづける」ことで物語が進行していくのです。
 これにはおそらく二つの意味があるのだと思われます。
 一つはまず単純なことで、『向日葵の少女』のストーリーとの、ストーリー的なシンクロニシティを意図的に産み出し、それを演出として利用することでしょう。
 云い方はややこしいのですが実際は単純なことで、つまり『向日葵の少女』の主人公であった森田賢一と、この『悠久の少年少女』法月ストーリーの主人公である阿久津将臣が、同じような目にあってきて今ここにあるのだ、とすることで二人のキャラクタの関係性や物語を演出すると同時に、「特別高等人」の試験制度とは今も昔もこういうものなのだという舞台設定の補強も同時に行っているわけです。
 これはまあよいでしょう。単純な話です。
 問題はもう一つで、同じ方法論でありながら、今回のこの法月の話では微妙に異なっている点が存在しています。
 それは、意図的にこの連鎖の終わりを見せようとする点が強調されている、ということです。つまり、そこで一度読者に先を疑わせることを止めさせようとするのです。
 無論、これは『向日葵の少女』でも存在していましたが、しかしあくまでも連鎖の数少ない要素の中の一つであって、それが強調されていたわけではありませんでした。
 さて、このシナリオには、主に四人が登場します。ネタバレキャラを入れればもう何人か増えるのですが、メインはこの四人と云って差し支えないでしょう。
 ここで一つものすごく大切なことは、この法月シナリオにおいての主人公である阿久津将臣と、サブキャラクタである樋口三郎がどうなるかを我々は既に知っている、ということです。
 そして逆に云うと、この二人を引いた残りの二人、法月アリィと雑賀みぃながどうなるかは、我々は知りません。あたりまえのことですね。
 あたりまえのことなんですが、これが実はものすごく重要なポイントでもあります。
 判りづらいのでさらに云い変えると、アリィとみぃながどうなるかは未知である反面、阿久津と樋口は絶対にこの話の中で死ぬことはありません。そして、阿久津は必ず特別高等人になることも決定しています。
 これは別にネタバレでもなんでもなく、この話が『向日葵の少女』のビフォーストーリーなのですから当然です。ここで阿久津が死んだら『向日葵の少女』の世界が成立しません。
 だって、『向日葵の少女』に阿久津将臣(法月将臣)は登場してるんですから。そして、樋口の死因がこの一連の事件ではないこともまた『向日葵の少女』で語られている話なのですから。
 で、我々はそれを知っています。
 つまり、この話でどれだけ阿久津や樋口がピンチに陥ろうと絶対に死ぬことはないし、阿久津が特別高等人になることもまた前提条件です。
 だからこそ「同じ演出」なのです。
 読者は、ここで阿久津は死ぬかもしれない、という感情を受けながら、反対にそれは絶対にないということを知っている。そしてさらに、じゃあどうやってこれを切り抜けるんだろうという考えに至る。それは成功したように見えたけどしかしそれも敵に握られていた。じゃあどうするんだろう……という連鎖が今度は始まるわけですね。「結果を知らされている」からこそできる演出であると云えるでしょう。
 蛇足ながら、だからこそおそらく多くあるであろう「先が読めたからつまらない」という批判はちょっと違うのではないかという気がします。
 無論、どのレベルで「先が読めたか」ということはありますが、返す返すも「阿久津や樋口が生き残る」ことは前提条件なのですから。それに関わる事象で「先が読めた」のはあたりまえの話です。そして、それに基づいて、ああ生き残るのね、ハイハイ、で物語を流せばそれで終わってしまうのもまたあたりまえの話です。
 つまり、同じ方法論をとったもう一つの意味というのは、同じ方法論を使うことによって、読者をも騙してしまおうという演出なのです。
 あくまでもそこにあるのは、生き残ることは大前提であり、それに至る過程を隠しつづける方法。その「騙し」を巧くコントロールする技術です。だからこそ、「これで連鎖は終わり」というポイントを意図的に読者に見せようとしているのではないかと思うのです。
 だから、同じ演出でありながら、その目的は明確に違います。
 『向日葵の少女』ではあくまでも物語の先にある謎を隠すことが目的でしたが、この法月ビフォーストーリーでは「物語を読者に読ませること」そのものが目的です。
 同じ演出を意図的に使い、それとの微妙な差異と用意されている結末を照らし合わさせ、そのエピソードの結末をモヤの中に隠してしまうという結論のつけ方は、ちょうど『向日葵の少女』の、「日常の中に謎を隠す」方法論と微妙に通じるものはありますでしょう。要するに、「あたりまえ」の中に先を読めないような展開を隠すということなのですから。
 そういう意味では、無論ミニマムではありますが、構成は『向日葵の少女』とほぼ同じです。あれが好きな人ならまず間違いなく楽しめるでしょう。
 そしてさらにもう一つ、改めて気づいたのは、このシナリオライターさんはとにかく悪役を描くのが巧いな、ということです。
 これも他の作品のレビューで何度か書いた話ではありますが、基本的に主人公がいい奴だとか、ヒロインが可愛いとか、そういうことよりも「悪役の質」は物語の出来を左右します。
 これは判りやすい話だと思います。読み手が悪役を憎むことは、つまり主人公と同じ感情を持つに至るということに他なりませんから。憎しみをもてるくらいの悪役がいなければ、物語はどうしても薄いものになってしまいます。
 『向日葵の少女』では法月将臣、この法月ビフォーシナリオでは法月アリィという「悪役」が出てくるわけですが、この二人はとにかく物語の進行中は、主人公にとって絶対的な悪でした。だから真剣にそれら悪役を憎むことができて、それでも最後、本当のクライマックス部分では彼らには彼らの考えがあったことを知らされ、読者もまた納得する。そういう構成ですね。
 確かに、この物語の舞台設定が、そういう絶対悪を設定しやすいのだというのも理解できることではあります。普通の恋愛物語では、どうしても主人公と女の子を取り合う嫌味なライバルとかそういう程度の話になってしまいますが、この作品では基本的に命のやりとりが行われますし、この「悪役」は、主人公に関係する人、関係ない人を傷つけたり殺したりすることを躊躇いません。
 どこか影のあった『向日葵の少女』の法月将臣に比べて、この法月アリィという人物は、さらに濃く悪役の色を出しています。それは、このシナリオの主人公が『向日葵の少女』で悪役だった法月将臣であるということも関係しているのでしょうけれども。
 いずれにしても、共通して「悪役を読者が憎める」という感情的な盛り上がりもまた、この作品のキモの一つになっているのは間違いないでしょう。
 で、これがこの法月ビフォーストーリーについてまず触れた理由なのですが、他の五作品……つまり前作ヒロインのアフターストーリーと、いきなり殺された女性の話には、それらキモになっている要素がすっぽり抜け落ちてしまっているのです。
 まあ、これは仕方がないでしょう。最初に殺された女性の話は「悪役が登場する前の話」ですし、四人のアフターストーリーは「悪役が消えた後の話」です。そこに悪役が介在する余地がありません。
 さらに、そういった物語的なギミックも一切なく、云ってしまえばごく普通の話です。
 特に四人のアフターストーリーにおいてそれが顕著で、すごくひらたく云えば「それぞれの女の子と付き合ってることになっている世界で、主人公がそれぞれの女の子といちゃいちゃするだけの話」です。事件らしきものは起こりますが、それは法月ビフォーストーリーなど比べるべくもなく、方法論もなにもない直球のストーリーで、特に物語的な面白みは皆無です。
 エッチシーンが急激に(それも何度も)入ってきて、しかもそれも無理矢理メイド服だったり体操服だったり、ま、そういう話です。
 だけどまあ、これは当然と云えば当然でしょう。だって、そういう「退屈で平和な日常」を描くのがこのアフターストーリーの目的なんですから。これに展開的に不満だとか文句を云うのはちょっと筋違いではあります。
 もちろん、キャラクタに思い入れがある人なら、そのエッチシーンとかほのぼのストーリーを見る意味合いで十分に楽しめるのではないかと思います。
 とりあえず法月ビフォーストーリーですね。『向日葵の少女』を楽しんだ人は、是非これだけでも読んでみてください。その価値はあると思います。

<CG>
 決して枚数が多いわけではありませんが、まあ、ファンディスクという性質を考えれば仕方のないことでしょう。それでも要所要所にはちゃんと一枚絵が使われてますし、露骨に不足を感じるほどではありません。立ち絵なんかも微妙に追加されてたりしますし。
 クオリティ面に関してもそんなに不満はないと思います。さちや夏咲の立ち絵に不安なところを若干感じるのは『向日葵の少女』と同様なのですが、追加されたCGやキャラクタの立ち絵に関してはそういう不安もほとんどありません。嫌味なところのないいい絵だと思います。

<システム>
 よくも悪くも普通のアドベンチャーシステムなので、特に可もなく不可もなく、でしょうか。スキップも高速ですし、セーブポイントも充分です。尤も、選択肢自体がほとんどない上に、法月ビフォーストーリー以外は話自体が短いのでセーブ忘れたとしてもさほどダメージにはなりませんが。
 デフォルトの状態で、バグなどの不具合も特に出ていません。今回からディスクレス起動が出来るようになったのも面倒がなくていいです。

<音楽>
 『向日葵の少女』で使われていた曲もありますが、新曲も多いです。歌二曲は完全新曲。ゲームの雰囲気からするともうちょっと落ち着いた曲を想像するのですが、どちらも割と激しい曲だったりします。特にエンディングの『live』はなかなかの名曲。劇中曲も『late-blooming』とか落ち着いてていいんですが、印象的なのはどちらかといえば個人的には『向日葵の少女』の曲だったかも。
 声は一部男性キャラに無かったりします。これが中途半端でちょっと微妙。女性キャラはどれも相変わらず合ってますし、灯花なんかは相変わらず飛ばしてていい感じなんですけどね。何より法月の声がカッコ良すぎます。もうコレに全部食われてる感じ。法月ビフォーストーリーでは彼が主人公なので当然彼には声がないんですが、これが惜しいくらい。

<総合>
 とにかく、『向日葵の少女』をやって楽しんだという方ならまず間違いないです。逆に『向日葵の少女』をやってない人や、まだ終わらせてない人がやってもちっとも楽しくないと思います……って、あたりまえでしょうけど。
 あくまでも「オールクリアーして、なおかつあの作品を楽しんだ人向け」ですね。そういう意味では、ファンディスクっぽくないとは云え、正しいファンディスクのあり方であるのは間違いありませんでしょう。
 あとはこの値段でしょうか。ボリューム的にちょっと中途半端に感じるかも。
 無論、このくらいのボリュームでさらに高いフルプライスの作品なんていくらでもあるわけでして、それを考えれば十分にお得です。ただ、『向日葵の少女』のボリュームを期待すると、やはりちょっと少な目なのは事実ではあるわけでして。
 いえもちろん、内容を考えるとぜんぜん納得のいく値段ではあるんですけどね。これ、内容的なボリュームというか密度はものすごいです。それはやればすぐわかるんですけど、でも、ちょっと値段的に中途半端な感じは否めないかなと。
 ただまあ、多くの場合、この作品を「買おうどうか迷う」人ってあんまりいないと思うんですよね。『向日葵の少女』が好きな人は買うし、そうじゃない人は買わない。あと千円安かったら買う、って人って少数派なのかなと。
 それだけの話で、「買う・買わない」についてはニュートラルがない作品だと思うんですよ。これを読んでる人も、たぶんその多くは「既にプレイ済みの人」なんじゃないかという気がしますし(いえまあ、だからこそ今回は具体的にキャラクタの名前を出した話をしたわけなんですが)。それはそれでひとつ「アリ」でしょう。
 それでももし購入を迷っているという人がいれば、もし前作が好きなら是非オススメします、と云っておきます。それだけの価値は絶対にあると思いますので。
 しかしアレですよ。
 法月カッコイイなあ。いろんなゲームに出てきた男キャラでも五本の指に入りますよ。
 ああ、あんな大人になりたい。

2007/02/01

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