「Kanon」

 さて、物語を書こうと思ったとき、そこに必要なものというのはいったいなんだろう。
もちろんそこには、例えば「起承転結」などといった様々なお約束やテクニックがあるのは事実だが、しかしそれ以上に、作者が「描きたい」と思ったポイントが必要となる。いわゆる「テーマ」というやつなのだが、そもそも物語を動かすくらいのキッカケというのは、これはテーマというような広義なタームではやや役不足かもしれない。良質の物語はそういうものを持っているから、その作品に触れる人々を現実から遊離させるような力を発揮するのである。

 「Kanon(Key)」をプレイさせていただいた。
 ストーリーなどはこれを見ることができる人々に対して説明する必要はおそらくないであろうし、そもそも説明することができないものである。説明しようとすると、それぞれのキャラクタ一人一人について言及しなければならなくなるからだ。導入部分だけ、つまりそれぞれのキャラクタにシナリオが分岐する共通部分を説明することはできるが、それに関しては恐らくまったく意味が無い。「7年ぶりに昔いた街に戻ってきた主人公が普通に学校へ行く」。これだけで全てが語り尽くされてしまうからだ。
 それぞれのキャラクタに話が分岐しはじめ、その娘が抱える思い出や記憶に話が触れられるとき、この物語が抱えるテーマや、この作品にこめられた思いがはじめて伝わりはじめるのである。

 「ONE」や「MOON.」を作り出したスタッフの作品だということもあり、とにかく物語の描き方や演出が秀逸なのには毎度のことながら驚かされる。しかし今回はそれだけではない。いままでにたくさんの人がやろうとして、しかしそれでもうまくいかなかった、そして恐らく製作者達が描きたかったであろう「KANON」が存在しているのである。

 物語というものは、それ単独ではひとつの物語でしか存在しない。時間の流れが一定である以上、現実をなぞらえた物語というものが、同時に二つ以上存在することは決してありえないし、あってはならないことだからだ。
 だがしかし、この世の中は、沢山の選択肢と偶然、必然、そして選ばれなかった選択肢の結論によって構成されているのである。ちょっと伝わり難いかもしれないが、要するにこういうことだと想ってくれればいい。例えばあなたが会社へ行こうと家から出る。靴を履きドアを開ける。そして玄関から踏み出す。
 何ということも無い、時間にすれば一分にも満たないこの一連の行動だが、例えばまず「会社へ行かない」選択肢もあったわけだし、さらに「ドアを開けずにやおら体当たりをしてブチ破る」選択肢もあったわけだし、歩き出すときにも右足から足を出すか左足から足を出すかの選択肢がある。もし右足から足を出していたら靴が脱げてしまったかもしれない。ドアをブチ破ればあとでドアを修理しなければならないから、ドアを修理する業者の人との出会いがある。
 これが「選択肢と偶然と必然、選ばれなかった選択肢の結末」である。たったこれだけのエピソードの中に、これだけの可能性が眠っているのだ。これらの可能性や事象が密接にリンクしてこの世の中は構成されているのであるが、しかしそれを実際に生活していて感じるということはまずない。

 この物語のテーマの一つは、おそらくそこにあるのではないかと想う。
 全ての、ばらばらに存在している物語が、後にひとつの結論として纏め上げられ、たった一つのまったく新しい結論を作り出す。そしてそこには少しの物語の破綻もなく、より高い次元での物語が完成しているのだ。一つ一つでは完成し、出来上がっているわけではないシナリオが、纏られた結論によって完璧に一つの物語として構成されていたのである。そしてそれは単独一つ一つの物語では決して完成することはありえない。現実世界でも、様々な因果によって巡ってきた結論が、どんな因果にトリガーされたのかというようなことは決してわかろうはずも無いのだから。

 この「KANON」が凄いのは、単純にいい話だ、では終わらせず、そういった因果と結論の関係を、ものすごく高次元なレベルで書ききっているということに尽きる。それだけではどうしてこの結論が導かれたのか解ろうはずもないのが、他の結論を引っ張り出すことによって明らかになる。そしてこのできあがった結論に、そうでなくても最高レベルのシナリオが付与することで、さらなる感動を呼び込む大きな物語が構築されてしまうのである。

 この作品は恐らくたくさんの人に支持されるだろうし、実際に今更わたしが言及するまでもないほどの賞賛されている。しかし、これを他のプレイヤーたちがどういう風に支持するのかという点において、わたしは非常に興味があるのだ。

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