「AIR」

 物語を書くときに最初に決めることは、キャラクターの設定でもなければ話の概要でもない。おそらく殆どの創作者が最初に決めるのは、その物語の「テーマ」であるだろう。テーマというのは、その物語が持ち、そして訴えようとするメッセージであり、また、その話が抱える存在意義でもある。勿論、テーマを持たずとも作品はかたちを為すが、どんなに出来のいい物語であれ、それは最後まで精巧な器にすぎず、その中は空虚な空間が広がっているだけになってしまう。また、テーマ大きすぎて物語がそれを受け止めるに足りないものであれば、たちまちテーマは物語から溢れ出してしまうだろう。それが「テーマ」の難しさでもある。

 度重なる発売延期を繰り返し、ようやく手元に届けられた「AIR(Key)」。18禁ゲームの世界に一石を投じたと言っても過言ではない作品を過去に作ってきたスタッフの作品ということもあり、その期待は当然大きいものであっただろう。それは私としても何ら変わらぬことはない。

 この「AIR」は、テーマに「本当の幸せ」というタームを持ち上げてきた。その言葉はあまりに漠然としすぎていて、作品の中身についてこの切り口からいきなり触れていくにはあまりにも難しすぎるだろう。そしてまた、このテーマを受け止めるだけの物語というものがどんなに大きなものであるか、私には最早想像もつかない。
 ストーリーを説明しろと言われると、これはまた難しい。同じスタッフによる「ONE」や「Kanon」のときもそうであったように、その概要は、国崎往人という一人の青年が一つの田舎町にたどり着き、そこで織り成す物語ということになる。しかし、ここまでは先の「Kanon」や「ONE」と同じなのだが、この作品のメインフレームはここにはなく、まさに物語の核心…「幸せを探す」ことへと繋がっていくのだ。つまり、物語の概要と、テーマに添えられた言葉が、寸分違わず重なり合ってしまうのである。ここではテーマは漠然としていながら、くっきりとした輪郭を持つ、確固たる言葉としてそこに存在し、物語となって世界を紡ぎだしているのだ。豊富な表情を持つキャラクター達や、その世界を彩るべく奏でられる音楽、物語。全てが奇跡的に合致したその瞬間に、AIRという作品は、考えられないほどの魅力を持ち、そこに存在している。そして、その全てが魅力となる。
 この作品の結末は、決してハッピーエンドではない。と、私は思う。そこから紡ぎだされてきたものは、どこかに哀しさが漂う物語であった。それは必ずしも表面的な意味合いから来るようなものではなく、もう一段階深い階層にある、「感じる」という部分においてであるが。そしてまた、そういう「心に感じる結末」を持つことができるという事実が、なによりこの作品の魅力になっているのだ。これは物凄いことだと思う。

 そして特筆すべきはその演出力であるとも言える。音楽、絵、物語という三つが単純に同じ場所にあって、それは勿論良質なものであればあるほど、すべてを補完してできるに相応しいドラマが出来上がるのは疑いない事実だろう。しかしこの作品では、さらにそれを巧みな効果が演出する。本当に小さなことではあるけれど、これがあるのとないのとではまったくちがうという演出が存在するのだ。
 確かに音声もないしアニメーションもない。こういう「演出」は、分類としては「派手な演出」であり、また「解りやすい演出」である。声があればそこには幾分の臨場感がつくし、アニメーションがあれば、そこにあるキャラクタが動きを持つことができる。それは間違いない事実だし、こういう演出を否定するつもりはまったくない。
 だが、これは逆に、プレイヤー側の想像力によって補われる部分を奪ってしまうとも言えるのだ。音声もアニメーションも、それがパソコンの上で動く「物語」であることを実感させてくれこそすれ、その物語の中に私たちを連れて行ってくれはしないのである。
 物語で大切なのは、この「自分自身」の置き場をしっかり確保するということだと思う。自分自身というのは主人公のことではない。ディスプレイのこちら側でマウスをクリックしている私であり、あなたのことだ。
 ここで、自分自身というのは主人公とイコールではないのかと言われると思うが、それは半分正解だが半分はハズレである。主人公とイコールなのはあくまでも「主人公としての自分」であり、これが主人公とイコールなのはごく当たり前のことだ。
 しかし、現実はそうではない。主人公はあくまでディスプレイの向こう側にしか存在していない。時折出てくる選択肢を選んでいるのは自分自身だけれど、それを実行するのは主人公である。物語は自分と一体化した主人公によって進められるけれど、それをこちらで見守っている自分自身の存在が確かにある。だからこそ、どんなに突飛な設定でもわれわれは受け入れることができるのだ。
 この「自分自身」が宙に浮いてしまっていると、これはどうしてもその作品を楽しむことができなくなる。あるときは物語の中で、あるときはディスプレイのこちら側の「自分自身」へとフォーカスが揺れてしまうと、どうしてもそこにあるのは、作られた「物語」を感じてしまうのだ。逆に、自分自身が主人公として物語の中にいるのか、あるいはディスプレイの外でそれを見守る「自分自身」であるのか、その置き場が定まっていると、それはたちまちしっかりとした世界を構築し、無限に広がるもう一つの世界を描き出すことができる。
 ここで話は戻るが、アニメーションや音声は、そういう意味では、こうした「自分自身の存在」を揺るがすものになりかねないのである。勿論上手く使えばそんな心配はないのだけれど、ふと音声が入ってきたり、ふとアニメーションが入ってきたりすると、物語の中にいた自分はディスプレイのこちら側に引き戻され、「物語であること」を感じてしまうのだ。
 そして、「AIR」である。「AIR」の演出は、そういった邪魔をしない。物語の中に私たちを引き込み、その世界の中に自分自身の場所を作る。そしてそこから世界を見つめることができるのだ。この作品の演出は、決してその邪魔をしない。それは純粋に、物語をそれぞれのプレイヤーの世界に回帰させようとするものでしかないのである。ちょうどそれは、幼い頃に両親に絵本を読んでもらったときのような、世界と自分自身、そしてさらにはテーマとの融合なのだ。これが、先に述べた「物語を感じる」ことへと繋がっていくのである。

 しかし、この作品についての感想というのは実に難しい。それはテーマが大きなものであるとか、話が難しいとかそういうことではなくて、いわゆる「ネタバレ」というものを抜きにして、この作品の物語的な魅力に触れることが非常に難しいからであるに過ぎない。もしかしてここを読んで「AIR」に興味を持った人がいたとしても、そういう、ある意味で物語の本質たる部分に触れてから、改めて物語に触れるようなことは、やっぱり勿体無いことだと思うからだ。通常であれば、「ネタバレ」というのは本当に物語の深遠部分にあるのだけれど、この作品に関しては、その「ネタバレ」が、通常では考えられないほど上の表層部分に浮いている。それは先に触れた、物語とテーマが融合しているからに過ぎないのだが、それはつまり事前に公開されていた情報からは考えられないほどのエッセンスがそこに存在していたということに過ぎないのである。

 勿論、細かいことを言えばたくさんある。できれば「子供」ではなくて「子ども」と書いてほしかったとか、美凪・佳乃のシナリオがあまりにも取ってつけたような印象があるとか(無論、伏線としてメインフレームに繋がっていく部分もあるのだけれど)、一本の話が今回は割と長めなので、話のメインフレームに辿り付く前に、ゲームそのものを止めてしまう人がいるのではないかという怖さとか、それは様々なものだ。だがしかし、最終的に出されたその物語は、いっぱいに受け止めてもまだまだ受け取れないほどのボリュームがあったことは間違いない。何気ない伏線が、すべてひとつの結末に繋がっていくあの瞬間は、本当にゲームをやっていてよかったと心から思ったほどだ。

 まだの方、迷ってらっしゃる方は、是非。そして最後には、どうか、幸せな記憶を。



自説AIR論(工事中) (ネタバレ。完全にクリアしてから見てください)


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